パリ在住の辻仁成、シングルファザーの日々を綴った3000日間の記録――自立するわが子を見送る親の姿はまぶしい

文芸・カルチャー

公開日:2022/9/20

パリの空の下で、息子とぼくの3000日
パリの空の下で、息子とぼくの3000日』(辻仁成/マガジンハウス)

 作家でありミュージシャンの辻仁成さんが、シングルファザーになってからの日々の記録を綴った書籍『パリの空の下で、息子とぼくの3000日』(マガジンハウス)。この本が、発売から約1カ月で4刷されるほどのヒット作となっている。息子が14歳から18歳になるまでの多感な時期、パリのアパルトマンで2人暮らしをした著者は、息子との暮らしで何を感じていたのだろうか。

息子の笑顔を取り戻すために

ある夜、子ども部屋を見回りに行ったら、寝ている息子が抱きしめているぬいぐるみのチャチャが濡れていた。(中略)その時、本当に申し訳なく思った。自分が母親の役目もしなきゃ、と思ったのもその瞬間だった。(中略)大きな冷たい家だったので、これはいけないと思い、小さなアパルトマンに引っ越し、ぴったり寄り添ってあげるようになる。

 この冒頭の文章は、まだこの本に2人暮らしの記録が刻まれる前の話。著者が息子と寄り添って暮らしていこうと決意した時の気持ちが綴られている。当時、まだ10歳だった息子は、著者がシングルファザーになったとき、心を閉ざしてしまったそうだ。その時の絶望感をいまだに忘れられない、と著者は語る。まだこんなに幼い子どもが隠れて大泣きするとは、親としてどんなに悲しいことか、想像に難くない。引っ越しをしてまで暮らしを変えよう、と一念発起するには十分な理由だったと思う。

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甘やかすだけではない飴と鞭の子育て

 その後、言葉のとおり、著者は息子にぴったりと寄り添って暮らすようになっていく。

息子が高校生活をスタートさせた。(中略)もう、朝ご飯は作ってやってない。離婚したばかりの頃、毎朝お弁当を作っていたことが懐かしい。今は、コーンフレークのようなものを胃にかっ込んで飛び出して行く。甘やかしちゃいけないと思ったのでそういうルールにした。

 料理好きで知られる著者は、毎日息子のために食事を作り、日本への帰国で留守にする時は冷凍保存できる料理を拵えることも。ここまで丁寧に子どもの世話をできる人はなかなかいない、と思っていたところ、この文章を読んだら、ただ甘やかしているだけではなく、子どもの自立のために飴と鞭を使い分けていることが伝わってきた。

息子との3000日間は貴重な時間の連続

サロンでスティングのEnglishman in New Yorkを歌っていたら息子がやってきた。「曲を作ったので聞いてほしい」という。(中略)「一緒にスティングを演奏しようか」先日、ちょっとだけギターを教えた時にこの子が習いたがっていることを見抜いた。彼のベッドに並んで腰かけ、ぼくはギターを持ち、彼はベースを抱えた。

 息子にとって、父でもあり母でもあった著者だが、こんなエピソードを読んでいると、2人の関係がミュージシャン同士のようにも思えてくる。それに、息子が著者にガールフレンドの相談を持ちかける時は、友人同士のようでもある。きっと何も語ることがないような日もあったことだろう。けれど、そんな1日でさえ貴重な時間の連続だったことが随所から伝わってくる。

パリの日常のリアル

ある時、部屋の換気をよくするためにドアをほんの少し開けていたら、上の階のアシュバル君4歳がぼくの部屋までやってきた。その時、ぼくはドアを開けていたことすら忘れて、歌っていた。(中略)その日から彼は家の前を通るたんびに大声で「ムッシュ〜、ジャポネ〜(日本人)」と叫んでいく。気にしてくれてありがとう! 嬉しいけれど、恥ずかしい瞬間でもある。

 著者がパリでどんな人たちと交流していたのか、どのようなレストランで食事を楽しみ、どんな休日を過ごしたのか、そんなパリの日常をリアルに感じられるのも本書の魅力である。アシュバル君が部屋までやってきた翌日、多めに作りすぎた巻き寿司をお裾分けしたら、とても喜ばれたそうだ。フランスにもお裾分けという文化があるのか、という新しい発見があったりもする。

やがて息子は親のもとを巣立っていく

あと、2週間で、あいつは、大空へ、半分は、自力で飛び立たないとならなくなる。そう、させるつもりだ……。それが人生だからである。

 心を閉ざした息子の笑顔を取り戻すため、著者は息子に寄り添ってきた。その中できっと願いは少しずつ良い方向に進んでいたのだろう。2人はやがて別々の道を歩むことになる。息子が自立する時がやってきたのだ。

 各章の始めに著者自筆のイラストが描かれているのだが、最初は父親に背中を押されていた息子が、最後は父親に背を向けて歩いていく。息子の自立に対する喜びと覚悟と寂しさとやるせなさと、それらが絡みあったような著者の胸中が伝わり、切なくなる。

 けれど、息子の自立を見送る親の姿は、重みがあって、複雑で、すごくまぶしかった。がんばりましたね、と心の中で敬意を示しつつ、読んでいる側もそれを一緒にやり遂げたような気持ちになり、読後は清々しさでいっぱいになっている。何かと心配事の多い世の中で落ち込むことも多いけれど、もう少しがんばってみよう、と勇気をもらえる1冊だった。

文=吉田あき

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