いじるほどに味わい深く。これぞ“マニアの神髄”な名作の読み方

文芸・カルチャー

公開日:2017/11/15

『名作をいじる 「らくがき式」で読む最初の1ページ』(阿部公彦/リットーミュージック)

 小説の読み方なんて人それぞれでいい。けれども、どうも本を読めないという人が最近増えているらしい。忙しい、集中できない、そもそもおもしろくない、と理由は様々だ。そこで、本は読むためだけのものではない、読めないならまずはいじってみればいいじゃないか、というのが本書『名作をいじる 「らくがき式」で読む最初の1ページ』(阿部公彦/リットーミュージック)の提案である。

 その方法は、文の中でおかしいと思う箇所に、「あやしい」とか「変!」とか”らくがき”するようにどんどん書き込んでいじってしまおう、というものだ。

 本書でいじられるのは夏目漱石、志賀直哉、太宰治谷崎潤一郎、森鴎外などそうそうたる文豪の名作の1ページ目である。教科書にも出てくるこれらの作家たちの作品を「いじって」みると、どんな世界が見えるのか。いくつかご紹介しよう。

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 まずは川端康成の『雪国』。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という有名な出だしで始まるあれである。著者はいったいどんないじりを入れるのか?

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くに叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」

 私などはこの美しい文章はさすが川端康成、などと思うのだが、著者は「チョー有名な出だし。でも何か“間”が悪くない?」とつっこむ。それぞれの文がてんで勝手に独立しており、流れていかない。文と文とをつなぐ“間”が見えず、次につながらない。主語が次々と入れ替わり、そのため焦点が定まらない印象を与えがちだ、というのだ。

「人間にたとえると、恥ずかしがり屋でこちらの目を見て話そうとしない人を相手にしているような気分です。」「熱い一体感がなく、ひんやり冷たくて、なんか居心地が悪い。」と文句をつける。しかし、まさにこれが『雪国』の持ち味なのかも知れない、といじりを転換する。それは『雪国』で描かれるストーリーゆえなのだが、詳しくは本書を参照いただきたい。

 次は太宰治の『人間失格』。「私は、その男の写真を三葉、見たことがある。」という書き出しについて「すごいもったいぶってますねぇ~」、文中の「醜く笑っている写真である。」「(その子供の笑顔は)何とも知れず、イヤな薄気味悪い」という箇所には「出た!太宰節!」とつっこんでいる。

 書き出しの文について、まず、「その男」という言い方がわざとらしい。さりげなさとは程遠く「誰だか気になるよね?ね?ね?」としつこく強要してくる感がある。そしてきわめつきは冒頭の「私は」。「私は」なんて断りがなくても十分成立するはずだし、むしろこれは「私の世界」のことなんだと思わされてしまい始めから本気にできなくなる、と指摘する。

 だが、実はこの「私は」という一言が大きな役割をなしており、太宰はこの「私は」なんて言葉を挟むためにこそ小説を書いたのではないかとさえ思える、という。それは、「私」と写真に写っている「その男」とが同一人物であり、さらに「自分」という語りべも登場するからで、この三者の関係からの読み解きへと著者のいじりは続く。

 このように、本書のすごいところは、著者のつっこみポイントといじりにある。それはストーリーや世界観を楽しむこととはまた違った本の楽しみ方に違いない。学校で文学をこんな風に教えてもらったらさぞかし人生は変わったのではないか、と思うほどにそのいじりは鋭くおもしろい。本が好きでも嫌いでも、本書はあなたの本の読み方をきっと広げてくれるだろう。

文=高橋輝実