愛猫との出会い、そして別れ――すべてのどんくさい「ネコのげぼく」に捧げるやさしい命の物語

文芸・カルチャー

更新日:2018/1/15

『わたしのげぼく』(上野そら:著、くまくら珠美:絵/星雲社)

 『わたしのげぼく』(上野そら:著、くまくら珠美:絵/星雲社)を読む。数ヶ月前、書店の店先でパラッと読んで「これは家で読まないとヤバイやつだ」と買って帰った一冊の絵本だ。

 主人公の「わたし」はオスのネコ。4歳のおとこの子に選ばれて家にやって来た。
「かっこよくて、かしこくて、すばやいのがじまん」で「しんがいではあるが、カワイイねこ」のわたしは、自分に尽くす少年を「げぼく」と呼ぶ。

げぼくはとても、どんくさい

 ごはんを食べるのも、走るのも、どんくさい。げぼくにカクカク(ロボット玩具)を机の上に置くと邪魔だと移動させてやった(落として壊した)。げぼくは泣きながら、星にもう一度買ってもらえるよう願うが、どんくさいから流れ星をつかむこともできない。そんなげぼくは、時が経ち、成長して「とても重く」なった。星を見るのが好きになったげぼくは、けれどどんくさくて、流れ星に願いを3回言い切れない。

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 優しい上から目線で語られる「わたしとげぼく」の日々は、やがて残酷な現実に突き当たる。

この家にきて、18ねん。わたしはすっかり、としおいてしまった。

 4歳だったげぼくは大人になり、わたしは老猫になる。「どんくさい人間」は年老いるのも「どんくさい」のだ。そして、かしこいわたしは知っている。

わたしはもうすぐ、しぬのだろう。

 死んだら空に行くことを知っているわたしは、心でげぼくに話しかける。

おまえにはふかのうかもしれないが、ながれぼしだってつかまえられる。
わたしはとても、すばやいのだ。
…………だから、げぼく。
泣くな。

 『わたしのげぼく』の物語は、共に生きるネコと人間の数だけ存在する、出会いと別れ、喜びと悲しみの物語だ。

 いま、ぼく(筆者)の目の前には、昨日の深夜、息を引き取った“わたし”=黒ネコのフランツがベッドで横たわっている。15年間、ずっと一緒に生きてきたフランツが死んでしまったことが、本当につらい。

 フランツは、たくさんのことを教えてくれた。ネコがグルグルいう音を冷蔵庫の異音だと勘違いするほど、何も知らなかったぼくに、ネコのげぼくになる喜びを教えてくれた。ぼくをトイレに3時間閉じ込めて「トイレの前には倒れるものを置くな」としつけてくれた。「ひとに噛み付くときは甘噛みくらいにしておけよ」とぼくの手を噛み血だらけにした。離婚してひとりになったときも、仕事が無くなって心が折れそうになったときも「わたしのごはん代を稼げ、凹んでる場合じゃない」と、いつも腹を空かせていてくれた。「わたしが死んだらげぼくが楽しめないだろ」と、ぼくが応援する名古屋グランパスのJ1昇格プレーオフが終わるまで、苦しいのに生き続けていてくれた。

 そして――「これ以上悲しいことなんかないんだから、もう何も心配せずに生きていけ」と、最後にニャッと鳴いて、生命を終えた。

 ぼくはお前のげぼくになれて、ずっと幸せだった。ありがとう、フランツ。でも――「もっと色々してやればよかった」「早く病気に気づいてやればよかった」「もっと一緒にいたかった」と何度も後悔がこみ上げ、涙が止められない。もう呼びかけても、二度とフランツはニャアと返事をしないし、しっぽも振ってくれない。ぼくと一緒で幸せだったのか聞きたいけど、もう話せない。

 ただ、『わたしのげぼく』の最後に記された「わたしからの手紙」に、すべての「わたし」たちの、すべてのネコたちの気持ちが書かれている気がする。

ゆっくりでも、おっとりでも、どんくさくても、わたしはおまえをきらいになったりなどしない。いつかあえる日を、こころまちにしている。
それじゃあまたな、たっしゃでな。

 ネコを失って辛い人にも、いまネコと幸せに生きている人も、これから飼ってみようと思う人も、関係ない人も、みんな読んでほしい。

 上から目線で、ちてきで、やさしい命の物語がそこにあるから。どんくさく、ゆっくり生きていこうと思えるから。

 だから、もう……泣かない。

文=水陶マコト