クライムサーガの金字塔、ついに完結! ドン・ウィンズロウ『ザ・ボーダー』

小説・エッセイ

公開日:2019/8/7

『ザ・ボーダー』

 ラテンアメリカの麻薬戦争を圧倒的な熱量で描いた一大サーガの完結編『ザ・ボーダー』がついに日本上陸。ミステリー界を驚愕させた『犬の力』『ザ・カルテル』から続く壮絶な争いの結末は――。

 

 シリーズ第1作『犬の力』が日本で刊行されたのは2009年。疾走感と迫力に満ちたストーリーと現実社会を抉る骨太なテーマ、魅力溢れる人物造形で、一気に読者の心を掴んだ。

 その年の年末ランキングでは上位を独占し、設立されたばかりの翻訳ミステリー大賞の第1回受賞作にも輝いたほどだ。「犬の力現象」と呼んでもいいほどの盛り上がりを見せたのである。

advertisement

 そんな『犬の力』は、1975年、メキシコ・シナロア州から始まる。麻薬取締局から派遣された若き捜査官アート・ケラーが、燃える罌粟畑を眺めている。メキシコから国境を越えてアメリカへ流れ込む麻薬を断つため、ヘロインの源を叩き潰す〈コンドル作戦〉の一場面だ。

 そしてケラーは、現地の警官ミゲルと協力して麻薬組織を壊滅に追い込んだ。しかしそれはミゲルが組織のボスに取って代わるための策略だったのである。

 ミゲルの甥、アダン・バレーラとは義兄弟ともいえるほどの交わりを結んでいたケラーだったが、組織との戦いの中でその関係は宿敵へと変わっていく。

 ミゲルが作り上げた麻薬カルテルを甥のアダンが引き継いでからは、ケラーとアダンの対決が物語の核だ。

だが話はふたりの戦いに終始するわけではない。組織に連なるカルテルそれぞれの頭目の思惑。麻薬商人の暗躍。覇権をめぐる戦いの中で起こる裏切り。謀略。

 身内を殺された者が、その復讐に敵の家族を手に掛ける。情報を引き出すためのおぞましい拷問。広がる憎しみ。連鎖する復讐。特にケラーがのちのち悔やむことになるある人物の死が物語を一気に加速させ、美しき娼婦とアイルランドの殺し屋が花を添える。

 第1作となる『犬の力』は30年に及ぶ壮絶にしてエキサイティングな麻薬闘争を描き、ケラーがアダンに勝利したところで一旦、幕を閉じた。

 だが、第2作『ザ・カルテル』でふたりは再び相まみえることになる。

ウィンズロウの描く戦争

『ザ・カルテル』刊行に際し、多くの読者が『犬の力』同様の胸高鳴る冒険小説を期待したが、ウィンズロウはその期待を軽々と超えてみせたから驚いた。さらにパワーアップしていたのだ。

 物語の始まりは2004年。刑務所にいたアダンが脱獄し、麻薬カルテルの王の座に返り咲いたことで事態は大きく動く。

 アダンの復帰で再編成を余儀なくされた麻薬カルテル。新興勢力が台頭し、果てしない抗争が始まる。家族をめぐる駆け引きや裏切り、打算など、カルテルの勢力図はなかなか定まらない。

 戦線復帰したケラーもまた、メキシコ政府や警察となかなか協力体制が取れずにいる。この不協和音がのちにワシントンを揺るがす事態を招くのだが……。

 そして物語は悲惨な戦争へと突入する。ケラーとアダンの対決はもちろん描かれるが、それよりページを割いて描写されるのは、戦時下の一般市民たちだ。何の関係もない普通の人々が無為に殺されていく。この上下巻でいったい何人が死んだことだろう。ひとつひとつの死に対して読者の心が麻痺していくほどだ。

 そんな中で、戦う人々がいる。無法地帯の町で町長となって秩序回復に走り回る女性医師。組織から脅迫を受けながら報道という志を捨てない記者。

 読者の心を打つのは、惨殺されたある人物の手記だ。全世界に向かって、カルテルとはおまえたちだと叫ぶのである。作る者、売る者、買う者だけの話ではない。そんな社会を許している無関心なおまえたちこそカルテルだ、と。

 この叫びは第3作『ザ・ボーダー』のテーマとして受け継がれていくことになる。この手記の思いをケラーが受け止めて発信するのである。『犬の力』が30年の抗争を描いたのに対し、『ザ・カルテル』での作中経過時間は10年。だがこの10年は実に重い。

「カルテル」シリーズの評価と社会への影響

 麻薬王アダンの脱獄─と聞いて、エル・チャポの名で知られるホアキン・グスマンを思い出す人も多いだろう。このシリーズには実在の人物や組織、現実の事件を想起させる箇所が随所にあり、ウィンズロウの麻薬に対する並々ならぬ知識と糾弾の強い意志がうかがえるのが特徴だ。

 アメリカの麻薬汚染は深刻な問題で、メキシコとの麻薬戦争は現在も続いている。その現実に真っ向から挑んだこのシリーズは、舞台となった国や地域を越えて、各国で大きな反響を呼んだ。

 業界内のファンも多く、ジェイムズ・エルロイ、スティーヴン・キング、マイクル・コナリー、リー・チャイルド、ハーラン・コーベンといった、日本でも人気のそうそうたる作家たちが『ザ・カルテル』を絶賛している。

 評判は文壇にとどまらない。『犬の力』刊行直後から映像化のオファーや計画が取りざたされていたが、このたび『ザ・ボーダー』で3部作が完結したことを受け、FXネットワークでのドラマ化が決定した。監督はリドリー・スコット、ウィンズロウ本人とシェーン・サレルノが製作総指揮を務めるという。こちらも実に楽しみだ。

 また、ウィンズロウはその知識を買われ、特殊部隊が南米・ボリビアを舞台に麻薬カルテルと戦う人気ゲームソフト「ゴーストリコン ワイルドランズ」のシナリオにも協力しているとのこと。

 映画に、ゲームにと、「カルテル」シリーズの影響はどんどん広がっているのだ。

 そうそう、『犬の力』が出たとき、日本では高評価とともに「ウィンズロウってこんな話も描くの?」という驚きの声があがったことも記しておこう。それまで日本で刊行されていたウィンズロウ作品とは、趣がかなり違っていたからだ。

 日本でまず注目されたのは『ストリート・キッズ』に始まる「ニール・ケアリー」シリーズである。若き探偵の、しゃれてて、ちょっとセンチメンタルな青春ハードボイルド。ニールのウィットに富んだ減らず口と繊細さで、多くの日本のファンを獲得した。

 また、『犬の力』の翌年に刊行された『フランキー・マシーンの冬』はまたタイプが異なる。62歳の元マフィアの殺し屋が突然命を狙われ、ある夏の記憶を追うという物語だ。遊び心に満ちた伸びやかな熟年クライムノベルと言っていいだろう。特に、映画好きにはにやりとする趣向がある。

 幅広い作風で読者を楽しませてくれるウィンズロウ。若者から熟年まで、軽やかなものから骨太な社会派まで、名作があなたを待っている。ぜひこの機にウィンズロウの豊潤な世界に触れてほしい。

文=大矢博子

知っていますか? 進化を続けるハードボイルド
ドン・ウィンズロウ

ドン・ウィンズロウ DON WINSLOW press photo credit Robert Gallagher

受賞歴
2000年、『カリフォルニアの炎』でアメリカ私立探偵作家クラブシェイマス賞を受賞。その後『犬の力』がハメット賞など4つの賞の最終候補入り、『夜明けのパトロール』『野蛮なやつら』がバリー賞ノミネートなどコンスタントに賞レースに登場している。

日本での人気
『ストリート・キッズ』でマルタの鷹協会ファルコン賞受賞。主人公ニール・ケアリーの人気は今も根強い。また、『犬の力』と『フランキー・マシーンの冬』でファルコン賞・日本冒険小説協会大賞の両賞を2年連続で受賞している。

意外な経歴
大学時代の専攻はジャーナリズム。全米各地やロンドンで私立探偵として働いていた経験を持つ。また、法律事務所や保険会社のコンサルタントとしても15年以上のキャリアがあるなどさまざまな職を渡り歩いた。テロ対策トレーナーという犯罪小説家らしい(?)職歴も。

映像化
これまで『ボビーZの気怠く優雅な人生』を原作とした『ボビーZ』と、『野蛮なやつら』が原作の『野蛮なやつら/SAVAGES』が公開。また、日本でも放映されたテレビドラマ『UCアンダーカバー 特殊捜査班』には脚本として名を連ねている。

どん・うぃんずろう●1991年、探偵ニール・ケアリーが活躍する『ストリート・キッズ』(創元推理文庫)でデビュー。アメリカ探偵作家クラブ・エドガー賞の処女長編賞候補となり、シリーズ化されて人気を博した。青春ハードボイルドからクライムノベルまで幅広い作品を誇り、ウィンズロウ節とも呼ばれる特徴的な文体が魅力。

『犬の力』『ザ・カルテル』を読んだ読者の声(読書メーターより)

『犬の力』『ザ・カルテル』を読んだ読者の声1
『犬の力』『ザ・カルテル』を読んだ読者の声2
『犬の力』『ザ・カルテル』を読んだ読者の声3

シリーズ時系列

1975年 コンドル作戦
アメリカがメキシコ・シナロア州で展開した麻薬撲滅作戦。この派遣で、ケラーとアダンが出会う。作戦は成功したかに見えたが麻薬カルテルを誕生させる結果に。

1985年 ヒダルゴ拉致事件
ケラーの腹心の部下、ヒダルゴが拉致される。アダンと決定的に敵対するきっかけとなった。また密輸ルート〈メキシコ式トランポリン〉がこの頃確立。
ケルベロス作戦
国家安全保障会議がメキシコ麻薬カルテルを利用して、ニカラグアの親米反共勢力に資金援助を行う。

1994年 中央アメリカでの共産主義と左翼の指導者を暗殺する多国間協調政策〝赤い霧〟作戦の一環として、フアン・パラーダ枢機卿殺害。

1999年 アダン・バレーラ逮捕

2004年 アダン脱獄
ケラー、麻薬取締局に復帰。

2006年 麻薬戦争
10年で10万人を超える無辜の人々が殺される。メキシコ政府の一部は戦闘を止めるためシナロア・カルテルと密約を結ぶ。麻薬取締局を辞めていたケラーも密約に参加。

登場人物:アダン・バレーラ
登場人物:アート・ケラー

次ページ:書評家・大矢博子による【熱烈レビュー】半世紀に及ぶ麻薬戦争サーガ、圧巻の完結編