ガラスの部屋に閉じこもる青年を、水墨画のエネルギーが再生させる。『線は、僕を描く』

文芸・カルチャー

2019/8/31

『線は、僕を描く』
(砥上裕將/講談社)

 人生の岐路に立たされた時、人の心に「自分はいつか、ちゃんと“何か”になれるのだろうか」という、漠然とした不安が芽生える。その想いは大人に近づくにつれ段々と強くなり、何者にもなれそうにない自分という存在に無性に焦りを思えてしまうこともあるだろう。しかし、『線は、僕を描く』(砥上裕將/講談社)のページを開くと、人生にはまだ無限の可能性が溢れているように感じられるはずだ。

 本書の主人公・青山霜介(そうすけ)は17歳の時に両親を交通事故で亡くして以来、自分の殻に閉じこもるようになってしまった。未来を築くためではなく、何かを考えるということに対して消極的になり、私立大学の付属高校からエスカレーター式で進学し、大学へ通う日々を淡々と送っていた。

 そんなある日、自称・親友の古前(こまえ)から単発のアルバイトを頼まれ、巨大な総合展示場へ行くことに。しかし、そこで彼を待ち受けていたのは聞いていた飾り付け作業とは程遠い、肉体労働。体力のない霜介にとってこのアルバイトは苛酷なものだったが、展示場で偶然出会った水墨画家の巨匠・篠田湖山になぜか気に入られ、彼はその場で「内弟子」になることに。きまぐれにも見える巨匠の振る舞いに反発した湖山の孫・千瑛(ちあき)から翌年の「湖山賞」をかけた大勝負を持ちかけられてしまい、霜介は半ば強制的に水墨画の世界へと足を踏み入れることになる…。

 筆先から紙面の上に生みだされる「線」の芸術。それに触れることにより、霜介の無気力さは日々変化していく。本作はひとりの青年の“再生物語”でもあるのだ。

■水墨画が孤独な青年の希望に――

 両親の事故死以来、外部の声をシャットアウトし、自らが心の中に作ったガラスの部屋に閉じこもり続けていた霜介。そんな中で出会った“水墨画”という光は、彼の人生を次第に明るく照らし出し始める。

“水墨画というのは、水暈墨章(すいうんぼくしょう)という言葉が元になっている。これは水で暈(ぼか)して墨で章(つづ)る、というくらいの意味の言葉だ。”

 巨匠・湖山が語る水墨画の説明は、霜介だけでなく、水墨画についてほとんど知識を持たなかった私たち読者の興味もそそる。

■文章の向こうに“絵”が見える! 水墨画家が描き出した青春小説

 そして、本作は現役の水墨画家が手がけた小説であるからこそ、文字を通してその向こうに絵画が見えてくる。現に、霜介が湖山のお手本をまね、初めて水墨画にチャレンジした際の文章表現からは、まだ拙い彼の作品が読み手の私たちにも想像できる。

“墨を含ませて絵を描こうとしても形にはならず、湖面を描こうと筆を滑らせても、出来そこないの一の字ができただけだ。背後の山も手前の草木もどれも同じ場所にあるように見える。そして、墨はただ黒いだけで、湖山先生が描いたようなグラデーションや光はどこにもない。”

 初めて完成させた水墨画は、落書き以下の出来だった。しかし霜介は、真っ白な画仙紙を墨で好きなだけ汚しながら挑戦と失敗を繰り返しつつ、楽しさを見出し水墨画の奥深さに魅了されていく。

 また、対決相手である千瑛と心を通わせ、湖山の弟子・西濱湖峰の生命力溢れる画力や、同じく弟子の斉藤湖栖の圧倒的な技術を目の当たりにしていくうちに、水墨画は形や技法のみを追求するだけでは完成せず、自分の在り方や命を描いてこそ出来上がるものなのだと知る。

 時にはスランプに陥り、行き詰まりながらも「線を描くこと」の意味をつかもうと模索し、ひたすら描き続ける霜介。彼が辿りつくことになる水墨画を通して知った“命の存在意義”は、いったいどんな景色なのだろうか。両親の死後に自らが作りだしこもっていた分厚い「ガラスの部屋」は、水墨画を通して相対化され、彼の“逃げ場”ではなく“強み”として優しく光りだす。

 雪舟や狩野探幽といった日本画を代表する絵師たちは私たちとはまったく別の遠い存在であると思われている。だが、本作を通して、画仙紙の上に描かれる一本一本の線には画家の生き方が映し出されているのだと知ると、画家やその作品が身近に感じられはしないだろうか。水墨画は墨一色で人の心の繋がりと命の輝きを鮮やかに映し出す、唯一無二の絵画なのだ。

文=古川諭香