太宰治賞受賞作家・伊藤朱里、最新刊! 同じ職場で働く女性たちの憤りと傷を描く『きみはだれかのどうでもいい人』【レビュアー大賞課題図書】

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/1

きみはだれかのどうでもいい人
『きみはだれかのどうでもいい人』(伊藤朱里/小学館)

「痛み」とは、不快な感覚ではあるが、身体に異変が起きていることを知らせ、危険を回避することに役立つという。それを知っていたからか、「アンガーマネジメント」という考え方に触れたときは、ちょっとした疑問が残った。アンガーマネジメントとは、「怒り」自体を否定はしないが、コントロールすることで、健康や円滑な人間関係などのメリットを得ようとするものだという。しかし、「痛み」と同じく「怒り」という感情も、わたしたちの身体や心に、なにかを伝えているのではないか。コントロールされて削がれた「怒り」は、いったいどこへ行くのだろう?

 そんな疑問にひとつの答えを示してくれたのが、『きみはだれかのどうでもいい人』(伊藤朱里/小学館)という小説である。

 第1章「キキララは二十歳まで」の主人公・中沢環は、県庁から地方の県税事務所に異動してきた若手職員。税金を滞納する「お客様」の家々を回り、電話をかけて、支払いを促すのが仕事だ。お世辞にも県政の中心とはいえない場所での仕事だが、本庁での出世コースに戻るためには、ここで評判を落としてはいけない。仕事はもちろん、人づきあいだって完璧に。「女を売りにしなくてもやっていけるように」と環から女性らしさを根こそぎ取りあげ、地方に飛ばした本庁の女上司になんて、絶対に負けるもんか──。

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 環は、本庁で働くうちに茶色や黒ばかりになっていた持ち物に、リハビリのように淡いピンクのファンシーグッズを混ぜていく。元上司のようにはなりたくない。けれど、エリートコースには戻りたい。そんな環の意気ごみをくじくのが、アラフォーのアルバイト・須藤深雪だ。腰が低く真面目ではあるものの、残念ながら仕事はできない。その日、窓口に怒鳴りこんでくる「お客様」や、「遺書にあなたの名前を書いて死にます」と言い残して電話を切る「お客様」に閉口していた環は、空気の読めない深雪の態度に、ついに苛立ちを爆発させてしまうのだが……。

 本作を構成する4つの連作短編には、環や深雪のほかにも、環の同期の総務課職員、家庭では母でもある職場の女子会の中心人物、「お局様」の総務課主任など、年齢も立場もさまざまな女性たちが登場する。同じ職場で同じ時を過ごしながら、彼女たちはそれぞれの言いぶんを抱えている。努力の結果、挫折を知らずにきたのは悪いことか。「自分よりつらい人は山ほどいる」からと、どこまでがんばればいいのだろう。他人の不幸を見て見ぬふりすることを、心の自衛と考えてはいけないのか。自分さえ犠牲になれば、ものごとは本当に解決するのだろうか。彼女たち自身ですらその存在を知覚できていない傷は、とある共通のきっかけから顕在化する。

 自分も誰かを傷つけていると思えば、自分を傷つけた人の内面に思いが及ぶ。「みんながだれかの大切な人」である一方で、「きみはだれかのどうでもいい人」でもある。この自覚は、ある意味、満たされていても欠けていても苦しい現代の、リアルな処方箋であるのかもしれない。

 ブクログ人気作品ランキング第1位、雑誌『ダ・ヴィンチ』の「今月の絶対にはずさない! プラチナ本」に輝いた話題作がついに文庫化。今年の「レビュアー大賞」の課題図書でもある。誰もが抱える痛みや傷を丁寧に描きだす作品は、ひりつくような共感と、自分の心に向きあえるという読書の魅力が感じられる。

文=三田ゆき

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