ドラマも好調! 『ミステリと言う勿れ』が抵抗する「“おじさん”が真実を独占する社会」

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更新日:2022/1/31

「真実が一つ」に集約されてしまう状況に抵抗する整くん

 …とこんな具合に整くんはしゃべりまくるわけですが、ドラマ第1話(原作コミックス episode1)で展開される整くんのおしゃべりのなかに、同作のその後を示唆するようなきわめて重要な指摘が出てきます。取り調べの現場に現れた巡査部長・青砥成昭が、過去の冤罪事件を振り返りつつ、こう言うのです。

「真実は一つなんだからな」

 これに対して整くんは、「真実は一つなんかじゃないですよ」として、おおよそ以下のようなことを言います。たとえば、AとBの2人が階段でぶつかってBが落ちてケガをしたとする。Bは日頃からAからいじめられていて今回もわざと落とされたと主張するけれど、Aはいじめていた認識などなく、今回もただぶつかっただけだと言う。実際に起きた「事実」は一つかもしれないが、「真実は人の数だけあるんですよ」と。

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 整くんは「真実は一つ」に強く拒否感を示すわけですが、この「真実は一つ」というセリフは、整くんがその後のストーリーのなかで抵抗しているものを象徴しているように見えます。

 どういうことか、もう一度、池本さんの先ほどのゴミ出し問題を考えてみましょう。警察官・夫・男性であるところの池本さんにとっての「真実」は、「ゴミ出しとは、玄関からゴミを持っていくこと」でした。しかし(整くんの言葉をそのまま受け取れば)、妊婦・妻・女性である池本さんの妻にとっての「真実」は、「ゴミ出しとは、ゴミをまとめ、分別し、ゴミ袋のストックを確認し……集積所に出す」ということです。

 ゴミ出しをめぐって2つの「真実」が存在することが明らかにされるわけですが、しかし、これまでの日本社会においては、2つの「真実」のうち、池本さん側の認識が、かなりの程度「(唯一の)真実」としての位置を独占的に得てきたのではないでしょうか。だからこそゴミ出しにおける「ゴミ集め」作業は「見えない家事」と言われてきたわけです。

 本当は、妻の側の認識も「真実」であるし、なんならそちらのほうが「事実」に近いにもかかわらず、池本さん的な認識が「(唯一の)真実」として流通し、それ以外の見方は「ないもの」とされてきた。これは、「家事をしない側」が社会のなかで権力を握ってきたために、そうした人たちの認識こそが「(唯一の)真実」として扱われてきたということでしょう。

 整くんが抵抗するのは、このような意味で「真実が一つ」に集約されてしまう状況です。すなわち、本当は、複数あるはずの真実が「(唯一の)真実」に集約されてしまい、「(唯一の)真実」から外れるような認識・ものの見方は、まるで「なかったもの」のように扱われてしまう状況です。

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