武器はチェロ、潜入先は音楽教室…読む人の心を感動で満たす“スパイ”ד音楽”小説!

文芸・カルチャー

更新日:2023/2/2

ラブカは静かに弓を持つ"
ラブカは静かに弓を持つ』(安壇美緒/集英社)

 マンツーマンの、週1回30分のレッスン。そんな短い時間を共有するだけだとしても、音楽教室の講師と生徒の間には、見えない絆が紡がれていく。生徒が胸のうちにどんな思いを抱えていようとも、より良い音楽を目指す講師との時間は、気づけば、演奏だけではなく、日常生活へも大きな変化を与えていくのではないだろうか。

 新進気鋭の作家・安壇美緒氏による『ラブカは静かに弓を持つ』(集英社)は、そんな音楽教室での日々を描いた傑作だ。楽器に触れることの喜び、上達に向けた情熱が描き出されているのはもちろんのこと、本作はそれだけではない。この作品は“スパイ”ד音楽”小説。ある実際のニュースから着想を得て描かれたその内容は、想像を超えた感動へと読者をいざなっていく。

 主人公は、音楽著作権を管理する団体で働く橘樹。彼はある時、上司からミカサ音楽教室への潜入調査という奇妙な業務を命じられる。橘に課せられたミッションは、2年間、他の生徒と同じように音楽教室でレッスンを受けながら、著作権法の演奏権を侵害している証拠をつかむこと。そして、それを法廷の場で証言してほしいというのだ。気の向かないまま、身分を偽り、チェロ講師・浅葉のレッスンへ通い始める橘。音楽教室という場で、一体、彼はどのような光景を目の当たりにするのだろうか。

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 幼い頃にチェロを習っていた経験を買われて潜入調査員に選ばれた橘だったが、実はある事件をきっかけにチェロからは遠ざかっていた。その事件により、現在の彼は人づきあいを苦手とし、不眠症でもあった。だが、浅葉からチェロの熱心な指導を受けるうちに、橘は次第に変化していく。浅葉の奏でるようなチェロの深い響きを生み出すにはどうすればいいのだろう。音楽を奏でる歓びと、もっと上手くなりたいという焦燥、没頭。ああ、音楽とはなんて素晴らしいものなのか。師、そして、同じ師を仰ぐ仲間たちとの出会いは、橘の凍っていた心を確かに溶かしていく。

 だが、橘の心中は複雑だ。彼は普通の生徒ではなく、あくまでも“スパイ”。ミカサが裁判で不利となるような情報を集め続けなくてはならない。大切な人たちに嘘を重ねる日々はだんだんと橘を蝕んでいく。かけがえのない人たちを裏切って良いはずがないという迷いと、「自分は正しいことをしているのだ」という虚勢。彼の動揺がまるで私たちにも伝染してくるかのよう。気弱な潜入調査員の孤独な闘いから目が離せなくなってしまう。

講師と生徒のあいだには、信頼があり、絆があり、固定された関係がある。それらは決して、 代替のきくものではない。

 だからこそ、終盤のそんな言葉は心へと突き刺さった。音楽教室から著作権料を取るべきか、取らざるべきか、その答えはわからない。だけれども、確かなのは、音楽教室は絆が紡がれる場所だということ。そして、橘はその信頼を裏切る存在だということだ。決して調査員だとは知られたくない。だけれども、仕事は全うしなくてはならない。葛藤する橘をどんな運命が待ち受けているのか。揺れ続けた心が、最後は温かいもので満たされていく。音楽経験があろうとなかろうと、この“スパイ”ד音楽”小説には誰もが心動かされるに違いない。予想外の展開、橘の下した決断をぜひともあなたも見届けてほしい。

文=アサトーミナミ

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