母さんのおなかからこの世に飛びだし、ぼくの人生という旅が始まった/84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと①

文芸・カルチャー

公開日:2021/5/11

84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと』から厳選して全4回連載でお届けします。今回は第1回です。作家・辻仁成氏が自身の母の半自叙伝を、豪快な秘話とともに書き下ろした泣き笑いエッセイ集。心に響くとツイッターで大反響! 母の愛と人生訓にあふれた一冊です。

84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと
『84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと』(辻仁成/KADOKAWA)

母さんとの出会い

 人間は誰もが母親から生まれてくる。

 ぼくも母さんのおなかからこの世に飛び出してきた。

 でも、そこにいるのが母さんだと、最初からわかっていたわけじゃない。

 いつもぼくは母さんの背中におんぶされていたし、いつも抱っこされていたし、いつだって一緒に寝ていたので、だんだん、少しずつ、なんとなく、じわじわと、この人が自分の母親なのだとわかっていった。

 でも、それはごく自然なことだった。

 ぼくが母さんを認識した時の記憶はもう残っていないけれど、でも、幼稚園に上がる前よりもずっと前の、なにかぬくぬくとしていた頃の感触や香りや気配というものを覚えている。

 そうだ、3歳とか4歳の頃に、母さんに優しくされていた頃の、覚えている限り一番古いものだと思うが、それはきっとぼくが自我というものをはじめて持った時の最初の記憶じゃないだろうか。

 ぼくは、たぶん、ストーブの前に座っていた母さんの背中におんぶされていて、母さんの広くて温かい背中に頰を押し付けながら、もしかすると、やかんの湯気なんかを見ていたのかもしれない。

 まだ悩みや不安もなく、湯気越しに、窓外の寒そうな灰色の風景を眺めていた。

 母さんが子守唄を歌う時の肺の振動だとか、そういうぬくぬくとしたイメージだけが微かに残っている。

 母さんが着ていたセーターのもわもわした繊維にまとわりつく光りとか、自分の指先とか、母さんの髪の毛の香りだとか、けれども記憶とまでは言えない、ぼんやりとしたイメージの集積に過ぎないのだが、でも、赤ん坊だったぼくの脳裏に焼き付くに十分な母さんの第一印象がそこにはあった。

 それとて、もしかするとのちに成長した幼いぼくが勝手に捏造した、記憶の再合成のようなものだった可能性はある。

 あるいは、母親に対する、もしかすると理想のようなもの……。

 家族のモノクロの写真が数枚残っていたので、そこからなにかと紐付けして、記憶が勝手に操作されて生み出された、後付けの創作物かもしれない。

 でも、母さんの匂いやぬくもりや存在はきっとそんな感じでぼくのすぐ横に、傍に、身近にあったのじゃないか、あながち間違えてはいないのじゃないか、と想像する。

 ぼくが赤ん坊の頃の写真というのが、現実、実はあまり残っていなく、きっとまだ写真機が普及する前だったからかもしれないが、現存する数枚は、赤ん坊というよりも、2歳とか3歳の頃のものがほとんどだ。

 でも、一枚だけ、アップの写真があって、たぶん、父さんが撮影したものじゃないかと思うが、そこに写ったぼくは眉毛が開いて、まるまるとしていて、笑っていて、幸福そうな顔をしていた。

 そうだ、間違いなく、幸福であった。

 

 保険会社の会社員だった父と筑後川に浮かぶ大野島のマドンナだった母とのあいだに生まれたぼくには、その時、どんな人生が待ち受けているのかわかろうはずもなかった。

 自分の人生を予見できた者などいない。最初からその一生を理解して生まれた者などはいないのである。

 ぼくも例にもれず、ただの無垢な赤ん坊であった。

 きっと、母さんの母乳を吸って、母さんが拵えた離乳食を食べて、泣いて、笑って、ひっくり返ったり、寝たり、そしてある時、ハイハイをはじめたのであろう。

 それから両親に見守られながら、ぼくは二本の脚で立ち上がった。よちよち歩きの時代、ぼくが歩むその先につねにいてくれたのが母さんだった。

 母さんが八重歯を見せながら、手を開いて、ぼくを待っていた。

 ぼくの前方には母さんがいた。

「ひとなり、こっちへおいで」

 と母さんが優しくも力強い声でぼくを呼んだ。

 その声にひっぱられるように、ぼくの小さな足は一歩、一歩と踏み出した。

 ぼくはそこへ向けてよちよちと歩き出したのである。その時の母さんはきっと間違いなく、ぼくにとっては最初の目標であり、到達地でもあった。

 そこをめがけて歩き、ぼくは生きることの大切さを学びはじめることになる。

「ひとなり、こっちよ、ほら、こっちへおいで」

 覚えていないけれど、覚えているようにその当時のことをこうやって克明に書くことができる。

 記憶にないのに覚えている、というのはへんな言い方だけれど、それはあらゆる人間にとって共通する、親との出会いでもある。

 

 ところで、物心というものはいつ生まれるのであろう。

 物心というものがぼくに宿った時の記憶がある。

 他人と比較できたわけじゃないけれど、ぼくは2歳か3歳の時にすでにこころの存在を知っていたし、いわゆるトキメキやトキメくことを知っていた。

 ドキドキとしながら、この世界と対峙していた。

 こころがつねに飛び跳ねていた。なにかがグルグルと身体の中心で動き回っていたのを覚えている。

 それがなにかわからなかったけれど、今なら推測することができる。

 それは、こころ、だ。

 ぼくはハイハイしはじめた頃、すでに「こころ」の存在を認知していた。

 幼いぼくはなにかがぼくの内側にいることを悟っていた。

 へんな言い方になるが、ぼくは最初の頃、自分のこころと会話をしていた(いいや、今でも時々、自分のこころと話をしている)。

 言葉にならない言葉を発しながら、ぼくは母さんに、なにかへんなものがぼくの中にいることを伝えようとしていた。

 その形にならないへんなものこそ、こころ、であった。

 とのちに、これもなんとなくだけど、わかるようになっていく。

 ぼくは自分のこころに名前を付けるようになるのだけれど、そのことはこの作品の本題からそれるので省くことにする。

 室内で赤ん坊用の三輪車に乗っている一枚の写真がぼくのお気に入りで、そこには、くりくり天然パーマの、まるで絵本に登場するキャラクターのようなぼくが写っていた。

 でも、あの頃すでに、ぼくはこころの方が肉体よりもずっと大きな存在であることを知っていた。

 肉体よりもこころが大きかったので、そのせいでぼくの動きは鈍かった。

 ぼくはいつだってこころに振り回されていたのである。

 ぼくはものすごくませていたし、女の子のようにおしゃべりだったし、元気なこころのせいで落ち着かない性格でもあった。

 すでにいろいろなものを吸収しはじめていたし、こころがぼくを唆し、たぶらかし、命令し、動かしていることをすでに自覚してもいた。

 なにか奇抜な突拍子もない行動をとる時、それはだいたいこころの命令であった。

 

 母さんがぼくを抱き上げてくれている時の、なにか切ない感情というものを忘れることができない。

 人と接することを教えてくれたのは母さんだったし、ぼくにこころの存在や在り処を教えてくれたのもやはり彼女であった。

「それは、こころよ。こころ」

 そう告げるとなぜか母さんは頭ではなく、ぼくの胸の中心をトントンとタップした。

「ひとなりが、見ようとしているもの、つかもうとしているのは君のこころだよ」

 その小さな振動がぼくを大きく揺さぶり、こころが人間を動かしているのだ、と気づくことになる。

 ぼくが泣くと、母さんは、

「こころが悲しいと言わせている」

 と言った。

 ぼくがニコニコ微笑んでいると、

「あら、ひとなりのこころはご機嫌だね」

 と言った。

 だからぼくは自然と、ぼくにはぼくとは別にぼくのこころがあって、ぼくの一生に関与しているのだと理解するようになる。

「ひとなり、人間にはみんなこころがある。でも、中にはこころがない人もいる。こころが大きな、こころの広い人間になりなさいね」

 そうだ、幼いぼくはずっとこころの成長というものの中にいた。

 こころを支えるために、ぼくという肉体があった。その肉体はこころを載せる船だと、のちにぼくは悟るようになる。

 人間はこころを載せて、こっちの岸からあっちの岸へと渡る船なのかもしれない。

 あらゆる人間がその旅の途上にいる。

 

 Life is a journey towards guiding light….

 ぼくの、人生という名前の旅のはじまりであった。

 

ひとなり。期待し過ぎるな。バカにし過ぎるな。
くよくよし過ぎるな。我慢し過ぎるな。
悩み過ぎるな。腹立たせ過ぎるな。謝り過ぎるな。
食べ過ぎるな。頭抱え過ぎるな。くじけ過ぎるなよ。

<第2回に続く>