ダ・ヴィンチニュース編集部 ひとり1冊! 今月の推し本【7月編】

文芸・カルチャー

更新日:2021/7/19


「この世にたやすい仕事はない」…そうですよね(涙)『この世にたやすい仕事はない』(津村記久子/新潮社)

『この世にたやすい仕事はない』(津村記久子/新潮社)
『この世にたやすい仕事はない』(津村記久子/新潮社)

 社会人経験もそれなりになれば、「この世にたやすい仕事はない」ことは、もう十分すぎるほど体感している。とはいえ、使命感ややりがいに身を焦がしたのちのボロボロになった自分は、今度こそ溺愛してくれるだけの恋人に出会いたい、とばかりにユートピアを追い求めたりするものである。

 前職でやりがいのある仕事に就くも、人間関係に疲れ、燃え尽きたという「私」。作中では名も明かされることのない「私」は、前職の反動で、ただ監視するだけの仕事やバスの車内アナウンスの原稿作成の仕事、おかきの袋の仕事など、風変わりな仕事を転々とするのだが、これがどれもひとクセありすぎて面白い。大きな森の小屋での簡単な仕事は思わず手を挙げたくなったが、上司のいい人なのか困った人なのかグレーなところは絶妙だった。

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 仕事に振り回されることを恐れているはずなのに、それぞれの現場で気づけば必ず1回は仕事にどっぷり没入してしまう「私」は、やはり根っからの「仕事溺愛人間」なのだろう。本作の中には「仕事と愛憎関係に陥ることはおすすめしません」なるパワーワードも出現し、私も自分の胸に手を当てて考え込んでしまうのである。

 推しがいようとプライベートが充実していようと、時に仕事は生活のすべてとなり、仕事に生かされているような状態をも作り出す。愛しすぎた方が負けなのか、ちょうどいい距離感を知りたいものだが、雇用側には、くれぐれも社員の「愛情・やりがい搾取」だけはしないでいただきたいものだ。

宗田

宗田 昌子●マンガは講談師が主人公の『ひらばのひと』が面白かった! マンガも小説もお仕事ものはやはり楽しい。講談には必ず足を運ぶと決意。オズワルドさんのABCお笑いGP優勝に歓喜したのちは、最愛の「推し」たちの頂点を祈るばかりの夏になりそうです。


自我と対峙した「泣きゲーのパイオニア」が、初小説で見せてくれたもの『猫狩り族の長』(麻枝 准/講談社)

『猫狩り族の長』(麻枝准/講談社)
『猫狩り族の長』(麻枝准/講談社)

『Kanon』『AIR』『CLANNAD』『リトルバスターズ!』など、「泣きゲー」と呼ばれる名作の数々を送り出してきたゲームブランド、Key。その象徴的なクリエイター・麻枝 准による初の小説が『猫狩り族の長』だ――などと、平坦な説明から始まってみたものの、個人的にこの本はスペシャルな1冊である。というのも、自分は多くの「鍵っ子」(=Keyの熱心なファン)と同じように、冒頭に列挙した「麻枝 准の創作」に触れては、何度も涙してきたからだ。

 結論、『猫狩り族の長』を読み終えて、泣くことはなかった。しかし同時に、読み進めながらとても驚いた。以前、話を聞かせてもらったとき、彼はこう述べていた――「物語の中に自分の経験は関わっていない、自分はこの中にはまったくいない」。一方、『猫狩り族の長』では、冒頭から麻枝 准の内面が全開で映し出されている。本作の主人公のひとりで、作曲者でもある十郎丸の葛藤は、かつて麻枝が語っていた苦悩と重なるようにも感じる。自我を解放するのではなく、あくまで物語・フィクションにこだわってきたクリエイターが、新たな領域に踏み出した姿に、単純にワクワクする。そして彼は、昨年ダ・ヴィンチニュースのインタビューで、こうも語っていた。「自分が作ったもので誰かの心を動かして、感想を見る。もう、それだけが自分の生きがいです」。自らと向き合い、覚悟も決まっている麻枝 准が生み出す今後の創作が、まずます楽しみだ。

清水

清水 大輔●編集長。ダ・ヴィンチニュースでは、昨年放送されたTVアニメ『神様になった日』で、麻枝 准へのロング・インタビュー(特集 https://ddnavi.com/kamisama-day/)を実施。小説『猫狩り族の長』とあわせて、ぜひ読んでみてください。