Re:二億円を受け取ってください。/小林私「私事ですが、」

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公開日:2022/4/2

 男は賭場の主でした。私に、代打ちをしないかと誘ってきました。しこたま殴られ放り出された私を無視し、今になって声をかけてきたことに心底腹が立ちましたが、賭場で見たような男達には見られなかった不自然なまでにベッタリと白い歯に、私はえも言われぬ魅力を感じてしまったのです。

 しかしこの男との関係もそう長くは続きませんでした。猛獣を飼い慣らすには相応の器が必要です。私にはその男が飼うにはあまりに役不足の才がありました。噂が噂を呼び、更に強い飼い主へ。その中にはかつての家に繋がるような者もおりましたが、当時の私には大した問題ではありませんでした。彼、彼女らが己に不釣り合いだと分かる度に、私の口元は歪んでいきました。
 虎だとか獅子だとか、己より大きいモノさえ飲み込む大蛇だとか、仄暗い路地を歩けばみな口々に私のことを囁くようになりました。

 

 さて、一人の飼い主の話をさせてください。名前こそ出せませんが彼はとある大企業の役員を務めていらっしゃいました。公には出来ぬ賭博への興味の末、私に辿り着きました。私としては既に一生何もしなくても食べていけるだけの泡銭を稼いでおりましたから、もう誰かに飼われる必要すらなくなってはいたのですが、いやはや身も心も立派な博打うちになっておりました。刺激を求め探求する彼の姿勢に賛同し、飼われることにしたのです。

 飼い主の力か天の采配か、私はあの日の敗北からは少額の負けさえなく、大金のかかった勝負でも勝ち続けてきました。ですから飼い主や賭博相手に対し、命すら賭けても良かったのです。それが信用を得る方法の一つであり、また私にとって何よりの刺激でした。

 飼い主は幾つかの群に分かれます。自らの財をより増やしたい者、安全圏で賭け事を眺めたい者、私という猛獣を飼い慣らしていると知らしめたい者、彼は、今までの彼、彼女らとは一層異なるお方でした。
 彼は私と共に命を賭け続けました。己に博打の才なしと理解し、それでもその刺激に身を窶したいと願い、決まって隣に坐して勝負を楽しみました。いつしか我々は主従を超えて半ば戦友のような心持ちになっておりました。

 

 ある日の勝負のことです。賭け金は二億円、これは我々にはもうあまり刺激のない、些末な額でした。こんな勝負を受けたのはある種致し方のないことがありました。相手は彼が務める会社のライバル企業の社長令嬢でした。彼女もまた博打を照らす灯火の魔力に取り憑かれた方で、どこぞの賭場で見かけたのか、秘密を打ち明けない代わりに勝負をしろと言ってきたのです。二億円は、令嬢たる彼女が何とか動かせる最大限の金額でした。
 しかし我々もただ脅迫めいた勝負では興が乗らない、勝って必ず口止めしていただける保証もない。ですから、互いにその金額と命を賭けることで勝負を成立させたのです。

 同じ博打うちと言っても、彼女と私とでは経験の数にあまりに開きがありました。勝負は一瞬で決まり、我々は難なく命と二億円を手にしました。しばらく呆然としていた彼女は、我々に命までは取らせまいと脱兎の如く逃げ出しました。無論我々もそのような事態は想定済みでしたので彼の秘密を知る数少ないボディガードが取り抑え、この勝負は幕を降ろす予定でした。

 ええ、そう上手くはいかなかったわけです。そのボディガードは既に彼女の手の内のものでした。反対に捕らえられたのは我々の方でした。彼女は言いました、秘密を隠しその命を見逃す代わりに、我が企業の繁栄に努めよ、と。気付けば単身乗り込んできたはずの彼女の後ろには企業の者が控えておりました。勝負も二億円も、初めからブラフだったわけです。

 

 勝ち続けてきたことの慢心と、己を置いていた場所には身を滅ぼす業火が燃え盛っていたことにようやく気が付きました。彼は連れていかれ、名声地に落ちた薄汚い博徒の私は捨て置かれました。もう二度と立ち上がれぬようにと顔の形が変わるほど殴られました。目を覚ますと、初めての敗北の日と同じように雨が頬を打っていました。そして目の前にはアタッシュケースだけがポツンと置かれ、中身はあの二億円でした。それは彼女にとっても本当は大した額ではなかったのです。情けではなく、侮蔑の意を込められた忌々しい金だと瞬時に悟りました。それは気を失う前、最後に見た彼女の歪んだ笑顔を覚えているからです。

 

 未だにこの金は一円たりとも使えません。ただ、悲しいことに下賤な博打うちの私には金を捨てることも出来ません。そこの貴方、どうですか。話を聞いて。
 受け取ってはくれませんか。この震える程に腹立たしい金の輪廻を断ち切ってくれませんか。

 そうですか。それは喜ばしい限りでございます。いえ、残念ながらただ渡すことは出来ません。私と勝負してくださいな。勝てたらこれは貴方の物になりましょう。さすればこれが私の最後の勝負となります。私は今笑っていますか、そうでしょうね。ようやく渡せるんだから、当然のことでしょう。

 どうか、今度こそ、二億円を受け取ってください。

こばやし・わたし
1999年1月18日、東京都あきる野市生まれ。
多摩美術大学在学時より、本格的に音楽活動をスタート。
シンガーソングライターとして、自身のYouTubeチャンネルを中心に、オリジナル曲やカバー曲を配信。チャンネル登録者数は14万人を超える。
2021年には1stアルバム「健康を患う」がタワレコメン年間アワードを受賞。
2022年3月に、自らが立ち上げたレーベルであるYUTAKANI RECORDSより、2ndアルバム「光を投げていた」をリリース。

Twitter:https://linktr.ee/kobayashiwatashi
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