「結核」は神格化された美の病? 文学からわかる、「病」のイメージの移り変わり

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/13

『病(やまい)短編小説集(平凡社ライブラリー)』(ヘミングウェイ、モームほか/平凡社)

 いつの時代にも、小説や漫画、映画などのフィクションの世界には、主人公と病気のヒロインとの恋愛を描くスタイルがある。最近だと『四月は君の嘘』、少し古いところだと『世界の中心で、愛をさけぶ』などといったところだろうか。話の途中に死の予感を漂わせ、最後の「死」で読者や観客を泣かせるというパターンだ。こんな定番ストーリーに乗せられてなるものか、と抵抗を試みるもやはり泣く。

 歴史ものでは、結核のため若くして亡くなっている、新選組の沖田総司がよく描かれる。沖田は男性なのでヒロインではないのだが、描かれ方が中性的だったり美男子だったりすることが多く、池田屋での喀血シーンは定番となっている。史実では池田屋事件の時にはまだ発病していなかったようで、最近は違う沖田像も多くなってきている。だが、史実をなぞった新選組ものを描くには、結核で死ぬ設定自体はやはり変えられないだろう。そして、沖田の死が、読者にとってひとつの泣き所であることは間違いない。

 この結核を、「名だたる病の中で最も神格化された」病だと解説するのが、『病短編小説集』(ヘミングウェイ、モームほか/平凡社)だ。「病を題材にした英米文学の選りすぐりの短編を9つの項目に分類し」た14篇を集め丁寧な解説が入った文庫となっている。結核を代表する作品には、アーヴィング「村の誇り」と、モーム「サナトリウム」の2篇が選ばれており、他にも、ハンセン病、梅毒、鬱などを題材とした作品が収められている。

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 その編集意図は、「病」のイメージ作りへの「文学」の加担を示すこと、と言われても少し難しいので試しに噛み砕いてみる。例えば、クライマックスを効果的に盛り上げるために、作家は、主人公と恋人との“死に別れ”を設定する。いわば、作家が作品に「病」を登場させるときは、「病」の都合のいい部分だけを使うということだ。その結果、「文学」が「病」の実際の苦しみや症状とは別の、何らかのイメージだけを強めてしまうことになるという。もちろん、「文学」に使われる前にも、その「病」へのイメージ自体はあるのだが、「文学」がヒットすればするほど、「病」のイメージ強化に一役かってしまうというのだ。

 ここでは、本書の中から結核を掘り下げてみよう。

 まずは、1820に発表された「村の誇り」から。主人公は若い将校。純真無垢な村娘と恋に落ちるが、任務による異動で離れ離れに。娘は失恋の痛手から結核になり死亡。それを知った主人公は嘆き悲しむ――。今読むとベタな話だが、19世紀から20世紀初めまで、結核は“若く繊細な者が天使のように美しいまま天に召される”というイメージがあり、恋わずらいが原因とされることも多かった。結核の症状は、まず顔色が青白くなり、熱が上がると頬が紅くばら色になる「偽りの回復」を経て、やせ細り消耗しきって死ぬという経緯をたどる。天然痘や疱瘡のように皮膚の異常がなく、美しく死ねるとされた「病」だった。沖田総司も、この時代に当てはまる人物であり、結核のもつ若さや美のイメージと結びつくことで、より涙を誘う青年像が出来上がったように思う。

 次に、1947年発表の「サナトリウム」を見てみよう。結核患者である主人公が、サナトリウムへ隔離され、医師の管理下に置かれる。受動的な隔離生活は退屈極まりなく、院内の空気は気だるく重い。途中、若く前途明るい青年がひとり死亡するが、動物と同じような死に様で描かれる――。見事に、結核の美のイメージが崩壊している作品だ。結核のイメージ変化が起こったのは、20世紀に入ってから。結核の原因が科学的に判明し、人から人へ感染することが知れ渡ったことによる。戦後になると、医療の発達で死に直結する病ではなくなったが、よけいに、社会から隔離される後ろ暗いイメージが付きまとうことになる。

 時代ごとに、そのイメージが変わった結核。他の病気も同様だ。このように、その時々の「文学」に触れることで、「病」のイメージの変遷がわかるというのはおもしろい。「文学」と「病」のつながりを頭の片隅に入れておくと、演出家気分の一味違った楽しみ方ができそうだ。最近は、「病」の具体的な名前を出さない作品もあるが、症状がキャラクターやストーリー作りにどう使われているのか、ちょっと思いを巡らせてみる。そんな鑑賞も、また一興ではないだろうか。

文=奥みんす