『国宝』の吉田修一による小説「横道世之介」シリーズ、完結巻が文庫化! 39歳になった主人公が教えてくれる、なんでもない日々の愛おしさ【書評】
PR 公開日:2026/6/10

なんでもない日々こそが、人生なのかもしれない。いくつものなんでもない日々のつながりが綴られているだけなのに、どこか温かくて、ほろりと泣ける。――そんな本が『永遠と横道世之介 上・下』(吉田修一/文藝春秋)。『国宝』が大きな話題を呼んだ吉田修一による「横道世之介」シリーズの第3作、完結巻がついに文庫化された。
シリーズものというと身構えてしまう人もいるかもしれないが、心配は無用。著者の吉田自身も作中で「この物語、筆者自ら言うのもあれだが、シリーズを通して、ほとんどストーリーらしきストーリーがなく、もっと言えば、起承転結はもちろん、伏線があって最後に回収などという手の込んだ仕掛けもないのである」なんて身も蓋もないことを言っている。だが、吉田はこうも言う――「人生というものは、人の一生から、その派手な物語部分を引いたところに残るものではないかと思うのである」。この作品は、まさにその言葉どおりの1冊。派手な出来事や劇的な展開があるわけではない。けれど、何気ない日々の積み重ねの中から、横道世之介という男の人生が浮かび上がってくる。ある登場人物は、世之介を「体温と同じくらいの温度で、浸かっているのか浸かっていないのか、よくわかんないぬるいお湯」と表現するが、まさにそんな感じ。頼りないし、お調子者だけど、そばにいると、ほっとする。何かを大きく変えてくれる人ではない。けれど、一緒にいるだけで、こちらの肩の力まで抜けていく。日々に疲れているあなたにこそ、出会ってほしい人物なのだ。
39歳の横道世之介。下宿で繰り返される、ささやかで愛おしい毎日
横道世之介は、1968年生まれ。第1作で大学に入るために長崎から上京してきた世之介も、本作では、もうすぐ39歳。フリーのカメラマンになり、東京郊外に建つ下宿「ドーミー吉祥寺の南」で、一癖も二癖もある仲間たちとともに暮らしている。さらに、世之介は、修学旅行の記念写真の撮影の仕事で知り合ったベテラン教師から、引きこもりの息子を下宿で預かってくれと頼まれて……。
この本に書かれているのは、本当に何気ない日々だ。下宿を切り盛りするあけみちゃんが毎日美味しい料理を作り、仕事を終えた世之介がそれに喜び、仲間たちと騒がしく飲み食いする。事件はあっても、どれもささやか。仕事に落ち込む先輩、恋人との同棲や結婚に悩む後輩、恋に悩む下宿仲間。そんな日常に、引きこもりの高校生が加わる。世之介は、人がいいものだから、誰かが困っていると、つい放っておけない。けれど、聖人君子でも、人を導くようなタイプでもない。ただ、なんとなく、当たり前のように手を差し伸べるが、そこがいい。人助けでさえ、世之介にかかると大げさな美談にはならない。どこか間が抜けていて、ゆるくて、でもちゃんと温かい。その力の抜け具合が、この作品の心地よさにつながっている。
忘れられない出会いが、世之介の人生を形づくる
ただ、この作品の温かさは、現在の下宿生活だけで成り立っているわけではない。世之介の胸の奥には、今もふとした瞬間によみがえる人がいる。かつての恋人・二千花だ。世之介は今、下宿を切り盛りするあけみちゃんと事実婚の関係にあるが、ことあるごとに二千花のことを思い出す。出会った時、彼女はすでに余命を宣告されていた。二千花は世之介のことをどう思っていたのか。その過去を知るにつれて、ますます世之介に魅力を感じてしまう。そして、今そばにいる人も、かつて出会った人も、どちらも世之介の人生を形づくっているのだと気づかされる。「誰に出会うかなんてなかなか自分じゃ選べないじゃん。だったらせっかく会えた誰かを大切にした方がいいんじゃないかな」――人と人との出会いのかけがえのなさが、じんわりと胸を温める。
「一番大切なのはリラックスしていること」
世之介は言う。「この世で一番大切なのはリラックスしていることですよ」と。いつも肩の力が抜けている。ひょうひょうとしていて、何にも気取らない。でも、その気取らなさの中に、人を大切にすることの本質があるように思う。大げさなことをするわけではない。ただ、目の前の人を気にかけ、同じ食卓を囲み、少し笑わせる。そんな世之介の姿を見ていると、人生に必要なものは、案外それくらいなのかもしれないと思えてくる。
この本は、がんばれと励ましてくるのではなく、無理に前を向かせるのでもなく、ただ隣で「まあ、リラックスしようよ」と言ってくれるような1冊。読めばきっと、なんでもない今日の見え方が少し変わり、世之介という男を、ずっと昔からの知り合いみたいに好きになってしまうはずだ。もっとこの下宿にいたい。世之介たちの日常をずっと眺めていたい。そんな気持ちになったころ、物語は静かに胸を締めつけてくる。なんでもない日々は、過ぎてしまえば二度と戻らない。だからこそ愛おしい。「当たり前」の大切さを思い出させてくれるこの物語を、日々を忙しく過ごすあなたにもぜひ。
文=アサトーミナミ
