「殺傷シーンより目を逸らしたくなった」佐藤二朗×MEGUMI“史上最悪で最高”のラブシーン。映画『名無し』【レビュー】

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更新日:2026/6/9

「無敵の人を生まない」ためのヒントがあるかもしれない

 本編では「主人公・山田太郎が少年時代を過ごした昭和」「11年前の2015年」「大量殺人事件が起こった現在」という3つの時代が代わる代わる展開していく。その構造をもって、「なぜ彼が大量殺人事件を起こしたのか」という感情の理由を解き明かしていく過程が、とても巧みだ。

 観客は山田太郎の人物像と来歴を徐々に知っていくわけだが、そこには確実に絶望がある一方で、確実に「そうならない」「そうさせない」ための希望が逆説的に込められているとも思える。そのことがわかる、「山田太郎はどんな人物像を思い描いていましたか?」という質問に対しての、佐藤二朗の言葉をプレス資料から引用しておこう。

 社会は機会の均等を唱えているけど、現実にはそれができていない。神さまから与えられたカードが圧倒的に「貧困」だったり、どう考えても逆転不可能なカードしか配られない場合も残念ながらたくさんあるし、それによって社会的な事件も起こっている。理不尽なのは仕方のないことだとわかりきっていても、人間の温もりやつながりがそれに負けて欲しくないという思いが僕の中にはあるんです。完全な絶望というのは人と人のつながりがなくなったときに訪れるような気がしていて、誰かとつながれているうちは、とりあえず明日は生きていけるんじゃないかと。神さまの気まぐれなカード配りに勝てるのかどうか、山田太郎はそれを試されている存在でもあるんです。

 まさにその通りだ。本作の主人公は幼少期から孤独ではあったが、名付け親となる警官(丸山隆平)や、その右手のことも理解する女性・花子(MEGUMI)と出会い、確実に人間の温もりやつながりを見つけていく。それでも、なぜ彼はそのつながりをなくしてしまい、完全な絶望へと追いやられてしまったのか……その過程は決して他人事ではなく、普遍的な「無敵の人を生まない」ためのヒントがあるようにさえ思えたのだ。

 また、『名無し』というタイトルに反して、主人公には「山田太郎」という名前が付けられている。しかし、その安易な名づけ方もまた彼の「闇」に関わっていたのではないか、なんなら殺人の動機のひとつになっていたのではないか……と、まさに名前について話していた冒頭のファミレスでの会話からも想像できる。そのように何気ないシーンにも「意味」があるので、見逃さない、聞き逃さないようにしてほしい。

MEGUMIとの史上最悪(褒め言葉)のラブシーンも見もの

 他にも、本作には印象に残る、いや目に焼き付くほどにインパクトのある画がある。たとえば、佐藤二朗とMEGUMIがキスをする場面があるのだが、MEGUMIからは「邦画史上最も不細工できたないラブシーンにしようよ」という提案があり、佐藤二朗はそれを聞いた瞬間に、この映画を本質からよく理解してくれていることを感じて、「勝ったな」と確信したのだそうだ。

 確かに、このシーンは物語の流れとしても「いいことであるはずがない」もので、ある意味では殺傷シーン以上にスクリーンから目を逸らしたくなった、史上最悪(褒め言葉)のラブシーンだった。

 また、本作はそのラブシーン以外でも、「画面上の美しさや良さげな言葉ではごまかさない」真摯さを感じた。

 たとえば、序盤から佐々木蔵之介演じる警官が、冗談のように事件を茶化す同僚たちを、とある言葉を添えて一喝する場面がある。さらに、原作漫画とは異なるクライマックスの舞台、さらにはラスト付近の強烈なセリフもまた、やはり「いい話にしない」意図をはっきり感じさせないものだったのだ。

 改めて、本作で描かれるのは「無敵の人が大量殺人事件を起こした物語」だ。現実に同様の事件が起こるからこそ、それを観る意義はある。さらに、「ごまかさない」アプローチは、問題を真剣に考えるきっかけになるし、ファンタジー要素であるはずの「触れたものを見えなくする右手」の意味も深い思考を促してくれている。それらをもって、観る人それぞれが「そうならない」「そうさせない」ためのヒントを見つけてほしい。

文=ヒナタカ

<第6回に続く>

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