是枝監督「大悟さんの視線は自然と綾瀬さんに向いていた」『箱の中の羊』台本になかった名シーン誕生秘話【是枝裕和インタビュー】
公開日:2026/6/5
綾瀬はるか×大悟が演じる夫婦は「撮っていておもしろかった」

――そうしたイメージが映像としてかたちになっていくなかで、なにか気づきみたいなものはありましたか?
是枝 音々と健介の夫婦は、いろいろと発見が多くて、撮っていてもおもしろかったですね。二人は、ヒューマノイドの翔を受け入れるスタンスが違っていて、どちらかというと健介は最初、しぶしぶといった感じだった。だけどだんだん、音々とはまた違うプロセスを経て、ヒューマノイドとしての翔を受け入れていく。「それでええんちゃう」「知らんけど」っていう彼の曖昧さがいいなあと思ったし、夫婦というのは厳密に同じである必要はない、むしろ曖昧さを許すからこそ一緒にいられるんだなと思いました。
――食卓での会話とか、同じ話をしているようで少しすれちがっている感じがあるシーンも多くて、夫婦のリアルだなあと思ったのですが、それでも一貫して、健介が音々を気遣っているのがわかるのが、よかったですね。
是枝 生成AIの情報として送る、翔の写真を二人で選ぶシーンで、ふと健介が、翔ではなく音々の顔を拡大するんですよね。あれは、台本にはなかったことで。その写真は、生前の翔と音々が水遊びをしているものなのですが、撮影現場で綾瀬さんが、思いきり楽しんでくださったおかげで、こちらが想像していた以上に、屈託のない笑顔がおさめられたんですよ。本当は、その写真で見るべきは翔だったのに、大悟さんの視線は自然と綾瀬さんに向いていた。だから現場で「翔じゃなく音々を拡大してください」って言ったんです。
――そうだったんですね。あの写真をみて、本当の音々はこんなふうに笑うんだ、翔の死はこれを奪ってしまったんだ、というのが切々と伝わってきました。
是枝 そうでしょう。僕も、この笑顔を、笑い声をとりもどしたいから、健介はヒューマノイドを受け入れることを決めたんだな、って気づいたんです。最初から台本にそれを書けていたらかっこいいんだけど、あれは綾瀬さんが屈託なく笑ってくれたこと、それを大悟さんが見落とさなかったことで成立したシーンです。あそこで僕は健介のことが好きになったし、後半、お風呂に入っている健介の耳に音々の笑い声が聴こえてくる、というシーンにも効かせられたんじゃないかなと思います。
「そこに答えはないのだ」ということを明確にしたかった

――二人が翔を亡くしてから2年。どうやら何かの事故に巻き込まれたらしい、そしてそれは、大きく報じられるようなものだったらしい、ということは冒頭で明かされます。でも、2年もたてば関係のない人たちは忘れてしまう。悲しみは今も続いているのに終わったことにされている。その苦しみが、うかがいしれるシーンでもありました。
是枝 「はやく次の子どもをつくれ」って音々のお母さんが言うのは残酷だし、デリカシーがないようにも感じるけれど、身近な人ほど「終わったことは忘れて、未来を生きたほうがいい」みたいなことを言ってしまうんですよね。子どもの死ほど大きなことでなくとも、苦しみ続けている人を見るのはつらいし、幸せになってほしいとも思うから、立ち直ることをすすめてしまう。だけど、音々のなかでは、終わったことどころか、まだ何も始まっていないだろうと思うんですよ。だから、僕はこの作品を通じて彼女たちの悲しみを癒すのではなく、ようやく止まっていた時計が動き出すまでの過程を描きたかった。ようやくグリーフワークが始まる、くらいのラストにしたいなと。
――是枝監督は、これまでずっと、透明化された人たちの日常に焦点をあててこられたと思うのですが、今回もその意識はありましたか?

是枝 そうですね。『万引き家族』でカンヌ映画祭に招かれたとき、ケイト・ブランシェットが「インビジブルピープル」という表現をしていたんです。「見えないとされてしまう人たちに光をあてた映画が今回の映画祭には多かった、『万引き家族』もその一つである」と。なるほど、と思いました。これまで僕は、家族を描く作家だとか、死と記憶をモチーフにするとか言われてきたけど、全然ピンと来ていなかったんですよ。今作に関しても、たしかに家族を描いてはいるけれど、家族の物語を描いたとは思っていないんですよね。
――翔の事故の真相や、それに関連しているかもしれない子どもたちの失踪事件について、劇中ではとくに説明も解決もされません。でもそこに、監督の意志みたいなものを感じました。この夫婦にとって大事なのはそこではない。二人を傷つけているものは、そんなことではないのだという。
是枝 もちろん。犯人というものが存在するなら捕まることは大事だし、その人が罰せられる必要もあるけれど、そのことによって悲しみが昇華されるかというと、また別の話だと僕は考えているんですよね。僕が描きたかったのは、そうしたことでは解決しないものだったから、あえて提示しておいて放置することを選びました。そのせいですっきりしない人もきっといるだろうけれど、「そこに答えはないのだ」ということを明確にしたかったから。インビジブルな人々だけでなく、感情や関係性にも僕は光をあてたいし、これからもきっと、そういうものを描いていくんだろうなと思います。

取材・文=立花もも 写真=金澤正平
▼映画『箱の中の羊』
2026年5月29日(金)全国ロードショー
監督・脚本・編集:是枝裕和
出演:綾瀬はるか、大悟(千鳥)etc
配給:東宝 ギャガ
(c)2026フジテレビジョン・ギャガ・東宝・AOI Pro.
▼映画『箱の中の羊』シナリオブック

