「ひーい」と呼びかけてくるのは誰? 平板な声で原材料名を読み上げ続ける子ども…… 些細な「音」が忌み語に変わる、耳から感染する因習ホラー【書評】
PR 公開日:2026/8/5

子どもが、食品パッケージの原材料名を延々と読み上げている。
それだけなら、少し変わった癖にすぎない。だけど、その声が平板で、呼びかけても返事をせず、母親をじっと見つめながら読み続けているとしたら。しかも、その言葉のなかに、口にしてはいけない「音」が潜んでいるとしたら……。
櫛木理宇『無音 忌み語を紡ぐ町』(集英社)は、なにげない言葉がいつ“忌み語”へ変わるかわからない恐怖を描いた因習ホラーだ。
妊娠中の那月は、夫の転勤に伴い、8歳の娘・沙希を連れて故郷のD県十櫃町へ戻ってくる。この町では「たがい違い」「アカンボ」「くっつく」など、ある種の言葉を発すると災いが起こると信じられていた。なかでも那月が恐れているのが、「タカシマサキ」という音だ。
中学時代、同級生の鷹島咲が自殺し、それを皮切りに原因不明の自殺が続いた。咲の葬儀で那月は、曇りガラスの向こうから「ひーい」と呼びかける奇妙な声を聞いている。人の言葉になりきれない、けれど確かにこちらへ向けられた声を。そして再婚によって、娘の名前も「高嶋沙希(タカシマサキ)」になっていた。
この物語で展開される怖さは、言葉の意味ではなく、その「音」にある。
娘が商品表示を読み上げる。誰かが口を滑らせる。昔からある落書きや歌が、途切れ途切れに聞こえてくる。文脈に紛れ込んだ音が忌み語を形づくった瞬間、日常の会話そのものが罠に変わる。だが、黙っていても「ひーい」という声は近づいてくる。
作者は『鵜頭川村事件』(文春文庫)や『鬼門の村』(東京創元社)などでも、閉鎖的な土地に蓄積した因習と、人間の欲望や差別意識を結びつけてきた。土地の掟を守り、口をつぐみ、弱い者に我慢を強いる人びとが、怪異の棲みやすい環境をせっせと整えている。その逃げ場のなさは絶望そのものだ。
仕事で家を空けがちな夫、兄ばかりをかわいがり那月を邪険にしてきた母、妊娠した那月を侮辱した元夫。異変を訴えようとするたびに、過去に受けたつらい仕打ちが蘇り、「自分のほうがおかしいのではないか」と那月は苛まれる。
沙希の異様な言動は怪異か、単なる母親への反抗か。激しい吐き気は呪いか、妊娠による不調か。耳をつんざく蟬のような音は何者かの接近か、ただの耳鳴りか。どれも医学や育児の見地から説明できそうだからこそ、那月の不安は周囲には伝わらない。
聞こえているのに、信じてもらえない。助けを求めたいのに、訴える言葉を過去の声が押し潰す。追いつめられる那月の前に、かつて出会ったふしぎな女性、蟻田があらわれる。蟻田の語る町の忌まわしい記憶を手がかりに、那月は怪異だけでなく、これまで自分を抑圧してきたさまざまな「声」に立ち向かう覚悟を決める。
本作は恐怖小説であると同時に、母や元夫、町の人びとから「おまえは間違っている」と押し込められてきた女性が、自分の感覚を信じ、自分の声を取り戻そうとする物語だ。その意味で、怪異の形を借りたフェミニズム小説でもある。
口にしてはいけない忌み語と、口にしなければ伝わらない苦しみ。二つの「言葉」をぶつけあいながら、作者は問う。ほんとうに恐ろしいのは、人ならざるものか。それとも声を上げた者を黙らせ、災厄の育つ土壌をつくってきた人間なのか。
耳に残り、身体にまとわりつく――櫛木理宇にしか書けない怖さと嫌さが、ここにある。
文=皆川ちか
