オーストラリアで揺れる17歳のアイデンティティを描いた『Matt』の魅力を深掘り。集英社文庫プレゼンツ ダ・ヴィンチWeb立ち読み読書の会Vol.2 イベントレポート
公開日:2026/9/16

2026年8月26日、「集英社文庫プレゼンツ ダ・ヴィンチWeb立ち読み読書の会vol.2」が開催された。本イベントは、みんなで同じ作品を読み、感想を伝え合う読書会。ダ・ヴィンチWeb編集部内の読書好きが集まり、約1年前に立ち上げた「ダ・ヴィンチWebゆる読書部」が開催している。
今回立ち読みしたのは、8月20日に文庫版が刊行された、岩城けいさんの『Matt』(集英社文庫)。『Masato』『Matt』『M』と続く「アンドウマサト三部作」の第2部にあたる作品だ。日本からオーストラリアへ渡って5年。高校生になり、「マット」と呼ばれるようになった真人の前に、同じ名前を名乗る転校生が現れる。オーストラリアで生活する日本人として、差別や歴史、異なるアイデンティティと向き合っていく真人の姿を描いている。
当日はスペシャルゲストとして、著者の岩城けいさんが登壇。作品に込めた思いから、オーストラリアでの実体験、三部作を貫くテーマまで語られたイベントの模様をレポートする。

「若い人に届いてほしい」『Matt』で描いたダイバーシティとは
イベントが始まり、司会者からの挨拶の後に、著者の岩城さんが登場。たくさんの人が集まった会場に驚いた様子を見せながら、普段は読者と直接会う機会がほとんどないため、こうして顔を合わせられたことが嬉しいと語った。
そして、約40分間の読書タイムがスタート。参加者はそれぞれのペースで『Matt』を読み進めていった。会場には黙々とページをめくる姿が並び、なかには第1部『Masato』を持参している参加者もいた。

読書タイムが終わると、岩城さんを交えたトークタイムへ。まず岩城さんに投げかけられたのは、今回の文庫化を機にどのような人に作品が届いてほしいかという質問だった。
「特にこんな読者というのはないんですけれども、やっぱり若い方に届いてほしいなと思います。戦争のことを書いたのでセンシティブなところも多いんですけれど、今の若い方が海外に行ったときに、日本人とは何かを考えるうえで、こういう事実もありますよ、ということを知っておいてほしいです」(岩城さん)
三部作の第2部となる『Matt』では、第1部よりも成長した真人が、自分では周囲に馴染んでいると思っていたなかで、差別や自身のアイデンティティを直視せざるを得ない出来事に遭遇する。
「真人ってかなり激しい性格で、結構きつい性格です。そういう子でもへこたれるようなことが起こる。真人には跳ね返す力があったからよかったんですけど、ぺったんこになってしまう子も出てくる。そういうことも知っていただきたいかなと思います」(岩城さん)

さらに岩城さんは、「ダイバーシティ」という言葉についても触れた。
「色んな人がいる、色んな言葉がある、色んな食べ物がある。それだけではない。色んなアイデンティティがある、ということを本作で表現してみたかったです」(岩城さん)
三部作に込めたテーマと、オーストラリアでの生活経験
『Masato』『Matt』『M』の三部作は、最初から真人の成長を3つの時期に分けて描く構想だったという。作品をつなぐひとつのテーマが「見送ること」だった。
「それぞれの作品で、真人が誰かを見送ります。旅立ちはよく書かれるんですけれど、残される人の気持ち、残る人の勇気というのもテーマにはあります」(岩城さん)
また、岩城さん自身のオーストラリアでの経験が特に反映されているのが、学校の場面だという。

「オーストラリアの学校生活って、和気あいあい、のんびりしているだろうと思われがちです。だけど、ハイスクールって本当に厳しい世界です」(岩城さん)
自身の子どもたちも現地の学校に通い、さまざまな経験をしてきた。『Matt』刊行当時、息子は自分にも起こりそうな出来事が描かれていることから「怖い」と作品を読めなかったそうだ。その後20歳を超えてから読み、「俺ならあんなことよう書かん」と話したというエピソードも明かされた。
「誰かが書かないとダメだと思った」戦争と言葉に向き合って
岩城さんがこれまで執筆した作品のなかでも、『Matt』は一番神経を使って書いた作品だったという。
「戦争を扱うから、きちっと調べて.......それだけでもすごく時間がかかりました。私も戦争体験を知らなかったがゆえに、分からなかったこともあったんですね」(岩城さん)
実際に、岩城さんがオーストラリアの老人ホームでボランティアをしていた際の経験も語られた。最初は普通に接していた高齢女性から、日本人だと伝えた途端、兄を日本兵に殺されたため近寄らないでほしいと言われたこともあったそうだ。
「日本にいたら聞けないことがいっぱいありました。読者の方にあまり不快な思いをさせたくないというのもあって、かなり緩めて書いたつもりなんですけど、棘はある。だけど、それを全部なくしてしまうのはおかしいと思うんです。やっぱり事実なので」(岩城さん)
耳の痛い話や、読みたくないと感じる場面もあるが、「誰かがやらないとダメだと思って、必死に書いていました」と振り返った。

重いテーマを扱う本編に対して、文庫版に書き下ろされた「デビュタント」は少し趣が異なる。
「楽しいことがひとつもない話だったので、文庫にしていただくと決まったときに、ちょっと楽しい話も書きたいなと思って。社交界デビューでドレスを選んだり、“あの子と踊りたい”とか。ちょっとときめきを入れたいなと思って書いてみました」(岩城さん)
司会者も、「この続きも見てみたいし、まだこの世界にいたい」と感じられるような終わり方だと紹介。まだ最後まで読み進めていない参加者に向けて、ぜひこの先も楽しんでほしいと呼びかけた。
参加者自身の経験と作品が重なる質問タイム
後半は、参加者から岩城さんへの質問タイムへ。
この日初めて岩城さんの作品を読んだという男性からは、「情景の描写を抑え、真人の気持ちを中心に描いているのは意図的なのか」という質問が寄せられた。
「『Masato』シリーズは、全部モノローグでいこうと思っていました。真人の気持ちをやっぱり前面に書きたかったんだと思います」(岩城さん)
また、高校時代にドイツのインターナショナルスクールに通っていた女性は、日本人学校でインフルエンザが流行した際、知らない人から避けられた自身の経験を思い出しながら『Matt』を読んだという。
「カフェテリアなどで交わされる学生たちの会話が、とてもリアルでした。息子さんから聞いた話をもとにしているのでしょうか」(参加者)
「息子から聞くこともありますし、私自身も日本語の補助や会話相手として学校に行く機会が多かったんです。ただ、小説なので、見たままを書いたら意味がない。それはもう種ですね」(岩城さん)

また、文庫版の装丁についての裏話も。『Masato』に続き、『Matt』、そして10月に刊行予定の『M』も、写真を使ったシリーズ感のある装丁になっている。今回の『Matt』の撮影現場に関する裏話も語られた。岩城さんや担当編集者の話を聞きながら、改めて表紙を興味深そうに眺める参加者の姿が見られた。
最後に、『さようなら、オレンジ』(筑摩書房 )の頃から岩城さんの作品に触れてきた参加者からも、感想やオーストラリアでの生活について声が上がった。22歳で渡豪し、現在まで30年以上現地で暮らしていると話した岩城さんに、参加者からは「これからも向こうから書いてください」と声がかけられた。
『Matt』を手に、それぞれの読書の続きへ
終盤には、岩城さんが用意したオーストラリアのお土産が当たるサプライズ抽選会も行われ、会場は盛り上がりを見せた。そして閉会の時間を迎えると、岩城さんから参加者へ最後の挨拶があった。
「自分の本がこんなに読まれているというのが、びっくりです。本当にありがとうございました」(岩城さん)
オーストラリアに住んでおり、普段はなかなか読者と顔を合わせる機会がないという岩城さん。作品をその場で読む参加者と、すぐに感想や質問を交わす、著者と読者の距離の近い読書会となった。

参加者には最後に、読書のお供として楽しめるコーヒーのドリップバッグのお土産も用意された。また会場では、三部作の第1作『Masato』の文庫版も販売していた。今回の『Matt』をきっかけにシリーズが気になり、イベント終了後、さっそく『Masato』を買い求める参加者の姿も見られた。『Matt』を手に、それぞれがこの先の物語を読み進めていく時間へとつながる会となった。
文=fumi / ネゴト 撮影=後藤利江
