他人に対して当たり前に向けられる寛容さを、自分にも向けるべきじゃないか。 又吉直樹が文庫『人間』に込めた思い(後編)

文芸・カルチャー

公開日:2022/5/8

又吉直樹

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 又吉直樹にとって初長編小説『人間』が文庫化された。『火花』『劇場』に続くこの作品は、語り手である永山の、高校卒業後に上京してきた年の出来事とそれから約20年後を描くことで人間の核心に迫る力作だ。純文学作品として異例のヒットを記録した当時から3年弱が経ち、文庫化にあたりあらためて『人間』に向き合ったとき、どんな思いが訪れたのか。その胸の内を語ってもらった。

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小学5年生くらいから人間の物真似を始めた

――又吉さんは、これまでの作品で「ある瞬間」を描いてこられたように思いますが、『人間』では、高校を卒業し上京してきた19歳の年と、38歳の誕生日からの数年、という2つの時代設定で描かれています。過去と現在はつながっているし、その境界すらないように感じる場面すらあります。又吉さんは過去を「過ぎたもの」として扱っていないように感じますし、捉え方が独特なんじゃないかなって感じるんです。

又吉 僕が若かった頃に大人に言われた「若い頃そうやったわ」とか「しょーもないことで悩んでるな」という言葉が、僕はすごく嫌だったんですよね。それは今も続いているんです。中学生だからこそ感じられるものもあるだろうし、小学生にしか見えないものもどうしたってある。僕は今、42歳になろうとしていますけれども、今の自分が自分史上一番正しいとは全く思わないんです。もちろん42歳の自分が、何かにおいては一番正しくなっていないと良くないとは思います。でも10代の自分はもっと誠実だったかもしれんし、14歳くらいの自分が一番ドキドキしながら本を読めていただろうし、足の速さで言ったら18歳だろうし……いろんなことの一番って全然違うから、今の自分が若い時の自分のマウントを取って「お前らなんてたいしたことないよ」ってやるのは、そもそも無理やと思うんですよね。多くの大人が鼻で笑うじゃないですか。若者の悩みを「ああ、それね」って。でもそれは悩みを根本的には解決できてなくて、なかったことにしてるだけやんっていう。なかったことにするのも技術だと思うんですけど、『人間』の語り手である永山もそういう処理の仕方をしようとするけど、できない。その全然できていないっていう様は書きたかったんですよね。

――過去と現在とか、現実と妄想とか、他人と自分とか、善と悪とか、対立しているものが実は隣接している、その境界線の曖昧さをものすごく描いている小説だと思ったんです。それがすごく不安を掻き立てもするし、安心もしたんです。

又吉 それはありますね。普通ってすごく難しい。普通って概念がすごく難しいと僕は思うんです。誰しも「自分は普通じゃないんじゃないか」って感じたことがあると思うんです。それはポジティブな場合もあるだろうし、ネガティブな場合もあるんでしょうけど。そういう境界線上にいる人、曖昧な存在みたいなものこそ僕は気になるし、興味の対象です。自分自身もそうだと思うんですよね。

――思春期から青春期にかけての時期って、自分は人と違うんじゃないか、どこかおかしいんじゃないかって、不安になったりぎこちなくなってしまう人も少なからずいるように思います。又吉さんはそんな自意識に苦しんだからこそ、『人間』に出てくる人物たちや彼らの心情を書けるんでしょうね。

又吉 小学生の頃とかは、なんか変な目立ち方してたんですよ。自分がやりたいようにやると、なんかずれる。まだ無邪気やから好きなように振る舞ってしまい、結果、怒られてしまう。それを「恥ずかしいな」とは僕自身思うんですけど、それを処理できなかったんです。それは能力のなさでもあったと思うんです、みんなができることができないんだから。5年生くらいになってくると「こうやればいいんや」とだんだんコツをつかんでいくんです。だから人間の物真似を始めたのは5年生くらいの時でしたね。中学生になってさらに普通を目指すんですけど、下手でうまくいかなくてまた目立つわけです。なので、今度はその変な部分を先に言ってしまおうと。自虐みたいな方向に振ったんですよね。それは面白がってくれる人がいたりして、めちゃくちゃ自己防衛になったんです。

――その自虐方向に振るのは、又吉直樹という表現者の根底になっているのかもしれないですよね。

又吉 それがお笑いのいいところでもあるし、こうすればええんやみたいなのがあったんです。なのに高校生くらいになったら、僕の意味がわからない言動が、「奇をてらっているんじゃないか」と思われている気がしてきて恥ずかくなってしまった。だからずっと黙っておく、人と話すの怖いみたいな。みんなとのズレが周りにバレるのが恥ずかしいから、しゃべらないんです。本当に当時、そう思ってたんですよ。でも僕、筆記用具も教科書も持っていかへんとか、むちゃくちゃなところいっぱいあるんです、なぜなら話聞いたらわかるから。なのにテストの点はめちゃくちゃ悪くて。それで、教科書がないとうまく授業っていかないんだな、って気づくわけです。僕は一個ずつ自分で理解していかないとわからないというのがあって、時間はかかったんですけどだんだん覚えていって、人間のコスプレがすごく上手くなったんです。それで友達のお母さんとかにも「又吉くんはすごく礼儀正しくてしっかりしている」なんて言われたりもして。

――僕も又吉さんは礼儀正しくてしっかりしていると思っていたんですが、それは人間のコスプレだったんですね(笑)

又吉 芸人って「いかに個性を出すか」って言われるじゃないですか。でも僕は逆なんです。どうやったら目立たへんように、指さされへんようにして生きていけるか、なんです。中学生くらいから、ライブとか舞台っていうのを自分で作って、この中だけはふざけていい、やりたいこと、思ったことを全部やればいいってしてきたんですね。そしてやっと芸人になって、芸人は変人大会やって噂を聞いていて、ここでは解放してええんやってやり始めたら、やっぱり変わってるって言われて。なんなら奇をてらってるって言われて、嘘やろって思った(笑)。芸人の世界でも普通っていうものを求められるのはあるんですよね。これは生きていく限り絶対にあるし、そこにフィットできない人たちは、ズレている感覚を引きずって生きていかなあかんから、そこは僕は意識する境界の部分ですね。

他人に対しては欠落も含めて寛容になれる。それを自分に向けたら……

又吉直樹

――『人間』の登場人物においてほとんどの登場人物が、「俺ってこういうところあるよな」と、誰もが自分の中に見つけられるような一面を、それぞれ持っていると思うんですね。そんな中、第4章で永山の両親が異質の性質を持って登場します。文中の永山の言葉を借りると、「人間が何者かである必要などないという無自覚な強さ」を持っている人たちです。彼らは又吉さんにとってどんな存在なんですか?

又吉 憧れであり完全体の人間ですね。何者かであろう、なんて思っていないし悩んでもいない。自分が思うように生きていて、それがそのまま生活になっている。すべてが一致していてズレがない。めっちゃ人間なんですけど、なのに一番のバケモノに見えるっていう。ここがこの小説の矛盾点ですね。僕は東京に「芸人になるんだ」って出て来て、文章も書いて、いろんな表現もして、どうやったらもっと面白くなるんかなと考えながら20年以上やってきたんですけど、「尊敬する人は誰?」って聞かれたら、やっぱり両親やなってなるんです。おるだけで面白いよなって、彼らのことを思ってるんですね。僕は両親に対して興味があって研究するんですけど、わかんないんです。憧れているけど、僕、絶対両親になれないんですよ。

――又吉さんは永山のご両親、あるいは又吉さんのご両親のような、自意識から解放された人間になりたいんですか?

又吉 何周も回って「自意識なんてないわ!」っていう状態に僕もなれたことはあるし、なんで人の目を気にせなあかんねんっていうマインドに入ったこともあるんですよ。でもそれは、自意識に対する反発でしかないんです。自意識との向き合い方がそう出てるだけで、結局はその中におるってことなんです。めちゃくちゃ年を取って「自意識なんて忘れてたわ」って時が来るのかもしれないですけど、このまま今の生活を積み重ねていって、努力して、その先に両親がおるかって言ったら、おらんよなって。自分がどれだけ頑張って小説を書いても、舞台を頑張っても両親にはなれないし、なりたいわけでもない。自分が突き進もうと思ってる道の先に、自分の尊敬している人がいないってことは、世界には軸が複数あるってことなんでしょうね。

――永山とカスミの会話で、自意識による苦しみや痛みを「自作自演」と表現するシーンがあります。それは小説家として又吉さんにとって大きなテーマだと思いますが、そんなご自身をみじめに感じたり憎むような期間は長かったんですか?

又吉 それは今もあります。でも、「あるけど……」ってとこでしょうね。あるんだけど、もうちょっと自分に対して寛容になっていいんじゃないかと思うようになってきました。

――その又吉さんの心の中の変化は、青春期の痛みとある程度の距離をとることのできる38歳の時に書いたから、向き合い描くことのできたものなんでしょうか。たしかに『人間』には過酷な場面が描かれていますし、その醜悪さが辛くなることもありました。でも、読後にある種の安らかさだったり、救いとか、生きる勇気を感じたんですね。

又吉 それは『人間』のテーマの一つですね。自分に対してめちゃくちゃ厳しい視点と寛容な視点と、2つを入れられたらいいな、それを公平にやったらどうなるんだろうって思いながら書いてもいました。僕の日常の中で、年の近いの友達とか後輩としゃべると、みんな同じような悩みを抱えているんです。そしてそれを聞いた時、僕は嘘偽りなく「ええやん別に」って思うんです。それは悩みに対しての「ええやん」ではなくて、彼らはめちゃくちゃ面白いし、存在としてかっこいいし、美しいんだから、欠落を含めて「ええやん」ってことです。そうやって他人に対しては当たり前に寛容になれるんです。だからその他人に対して向けられる寛容を自分にも向けてみるべきなんじゃないかっていうのが、今の僕の実感なんです。

職業とか人の区別みたいなものを取り払っていきたい

――インタビュー冒頭で、文庫化にあたって行った、装丁の変更と加筆についてうかがいました。でも今回、それだけで終わらず、きのこ帝国(活動休止中)の佐藤千亜妃さんとの動画企画も始められたじゃないですか。ここでの疑問は、なんで又吉直樹はこんなに働くんだろうということなんです。

又吉 あんまりそこは考えていないですけど、成功したライブがあって、それを再演する時に全く手をつけないかって言われたらそんなことは絶対にないんです。その時の自分の最善のものを出すっていうのは当然かなって思うんですが……。

――でも、小説の文庫化にあたって、ここまでやる作家さんはほとんどいないですよね? 楽しい部分があるんですか?

又吉 必要な作業ですよね。楽しいというよりは、やるべきこと。

――そこまでやりきらないと、自分で自分を容認できないってことなんですか?

又吉 今のところはそうですね。もっと肩の力を抜いた方がいいみたいな考え方があることも知ってはいるんです。その方がより効率的でクオリティも上がるって人もいるし。スポーツ選手にたとえるなら、練習のし過ぎで体を壊したら意味ない、みたいな。でもそれも理解した上で、今のところはちゃんとできる限り時間を使って、この先に何かあるんじゃないかって考えてやっていくことが僕には必要かなとは思います。

――最後に、この『人間』のテーマソングを作る、という動画企画について教えてください。佐藤千亜妃さんとコラボする、したいと思った理由は何ですか?

又吉 もともと「きのこ帝国」ってバンドで佐藤さんを知ったんですけど、その時からすごい好きでずっと聞いてきたんです。彼女はミュージシャンだし、曲も好きなんですけど、佐藤さんが書く言葉、歌詞にひかれるものがあって、特別な方だなって思っているんですね。音楽なので、言葉を独立したものとして鑑賞するのは間違ってるのかもしれないですけど。

――具体的に「この人は特別だな」って思った言葉はあるんですか?

又吉 このフレーズがっていうより、言葉との距離が近い人だな、と驚いたんです。言葉って自分の考えとか感情を人に伝えるためにあるものやから、誰でも使えるようにある程度の曖昧さを残していると思うんです。でも佐藤さんの書く歌詞からは、どこかで聞いたことがある言葉じゃなくて、本当の言葉、本当の感情、心の形とか、思考の形とかがすごく感じ取れる。だから僕は佐藤さんの音楽によって、一瞬で感情が掻きたてられたり一気に想像できたりする。それで、すごいなこの人って。

――この動画企画では、その歌詞の部分を又吉さんが担当するんですよね? どんな化学反応が起こるのか楽しみにしてます。

又吉 僕は正直、詞っていうものを書いたことがないんで、一からなんです。そんな状態の人間が佐藤さんにお願いするのはおこがましくもあるんですけど、文学が音楽と結び付いてるのは面白いかなという興味と、『人間』という小説自体が、職業とか人の区別みたいなものを取り払っていきたいな、というものでもあるので。何年か前に僕がお願いして実現した対談の時に、「歌詞、言葉があるんだったら、私に曲を書かせてください」と佐藤さんに言っていただいたことがあるんです。でもその時は「できないですよ」って。もちろん今回も、できるとは思っていないんで頑張るしかないし、頑張った先がどうなるか……。期待としては自分が思っていなかったようなものになるのがいいし、佐藤さんに歌詞の部分でもアドバイスをもらいながらやっていきたいなと思っています。

取材・文=編集部 撮影=三宅勝士

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