人生は選択の積み重ねの結果、といえるのか?『ある男』に考えさせられる――

文芸・カルチャー

2018/9/28

『ある男』(平野啓一郎/文藝春秋)

「ある男とは、誰のことなのだろう?」 
本作を読み始めた人の頭にまず浮かぶのは、この問いである。

『マチネの終わり』以来2年ぶりとなる、平野啓一郎の新作小説『ある男』(文藝春秋)は、「城戸さん」という男と小説家が出会う「序」から始まる。バーで出会った中年男性は初め別の名前と経歴を語っていたが、相手が小説家だとわかり、いろいろと質問をされると、実は城戸という名前で弁護士をしていると告白する。小説家は少々訝しげに思うが、その後打ち解け、幾度となくバーで会い、興味深い話を聞くこととなる。

 序が終わり、城戸についての話が始まるのかと思いきや、本編は里枝という女性の物語から始まる。“ある男”の謎の糸口をつかめるかと思っていた読者は少々肩透かしを食らったような気分になると思うが、宮崎で起きた不可思議な出来事を読み進めていくと、「ある男とは城戸ではなかったのか? ではいったい、ある男とは誰のことなのだろう?」という新たな疑問が頭をもたげてくることになる。

 横浜で結婚し、2人の男の子に恵まれた里枝は幼い長男の死をきっかけに離婚、次男を連れて宮崎の実家へ戻る。そこで里枝が出会って再婚したのが、林業を生業とする谷口大祐という真面目な男だった。やがて娘も生まれ、穏やかで幸せな生活を送っていたが、谷口が仕事中に事故で亡くなってしまう。生前、実家とは縁が切れたと言っていた谷口だったが、思うところのあった里枝は一周忌が終わってから死んだことを連絡する。ところが駆けつけた谷口の兄から、写真の男は弟ではないと言われてしまう……。

 頼る人のない里枝は、離婚の際に依頼をした城戸に連絡。城戸は谷口大祐を名乗っていた男が誰だったのか調査を始める。なぜ名前や過去の経歴もあって、婚姻届も死亡届も出せる状態であったのに別人だったのか? ここで「ある男とは誰のことなのだろう?」という読者の疑問に「この男は誰だったのだろう?」という謎が付け加えられることになる。さらに物語には現代が抱える問題や出来事などがいくつも絡まり、様々な人々のアイデンティティが浮き彫りとなって、平野の重要なテーマである「私とは何か?」という疑問が立ち上がってくる。そして「人を愛するとはどういうことか」も本書の重要な主題となっている。

 平野は「たった一つの『本当の自分』など存在しない」「対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて『本当の自分』である」という、一人の人間を「個人」以上に分けられる存在であると見なす「分人」という新しい考え方を提示した『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎/講談社)で、愛についてこう記している。

愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。その人と一緒にいる時の分人が好きで、もっとその分人を生きたいと思う。コミュニケーションの中で、そういう分人が発生し、日々新鮮に更新されてゆく。だからこそ、互いにかけがえのない存在であり、だからこそ、より一層、相手を愛する。相手に感謝する。
一々、お互いに愛していることをアピールし続けないでも、互いの存在そのものが、既にして、一緒に居続ける必然なのである。

 人生は選択の積み重ねの結果であると言われるが、すべてがそうではなく、自分では選ぶことができない、強制的に配られ、運命を左右してしまう「分人」もある。もしその分人が自分、もしくは相手にあったら、運命や過去、そして愛とどう向き合っていけばいいのか、とこの小説は問いかけてくる。何もかもが「自己責任」と簡単に切って捨てられる現代、物語を読み終えた人は必ずや「序」に戻り、「ある男」の存在について深く考えることになる。そして物語で起きた問題を身近な自分の問題として考えることが、未来への希望になるのだと確信することになるだろう。

文=成田全(ナリタタモツ)