愛する人が死ぬことで自分はサバイブできる――極限状態で育まれる、究極の純愛

文芸・カルチャー

公開日:2019/7/25

『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』(斜線堂有紀/KADOKAWA)

 山に囲まれた集落で暮らす中学3年生の江都日向(えとひなた)。彼の前に、6歳年上の美貌の女性・都村弥子(つむらやこ)が現れる。身体が純金に変異する難病「金塊病」を患う弥子は、江都に奇妙な提案を申し出る。

「私を相続しないか?」

 弥子の身体には死後、約3億円の値がつくという。

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 劣悪な家庭環境に置かれ、進学も将来の夢も諦めていた江都にとって、この申し出は吉と出るか凶と出るのか――。

『キネマ探偵カレイドミステリー』シリーズでデビューし、前作『私が大好きな小説家を殺すまで』で新境地を拓いた斜線堂有紀の最新作『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』。題名からしてなんとも不穏な雰囲気が漂っており、前作に引き続き、“愛”という感情に真正面から挑んでいる。

 まるで札びらで頬を叩くような感じで貧しい少年に提示された、風変わりな遺産相続。ただし弥子は、自分を相続するための条件を一つだけ江都に出す。それは、チェッカーというゲームで彼女に勝つことだった。かくしてサナトリウムに入院している弥子のもとへ江都は足繁く通うようになり、やがて惹かれていく。

 弥子への想いが深まれば深まるほど、江都は悩み、苦しむ。愛する人が間もなく死んでしまうことに、そして、その死によって巨額の金が自らの懐に入ることに。3億あれば何でもできる。この閉鎖的な田舎町を出ていくことも、我が子に対して無気力無関心な親を捨てることも、ひそかに温めていた夢を叶えるために突き進むことも、金さえあればできるのだ。ただしそのためには、弥子が絶対に死ななければならない。

 愛する人が死ぬことで自分はサバイブできるという、これ以上ないほどの極限状態。そんな中で育まれる恋は必然的に純度が高まってゆく。

 物語は江都の視点で、つまり恋する者のまなざしによって紡がれる。

 江都の目に映る弥子は掴みどころがなくミステリアスで、強く、そして脆い。江都の前では達観した姿を見せているけれど、それは彼を不安にさせないための演技であり、本当は死ぬのが怖くて仕方がないのだ。そんな彼女の本心にふれ、衝撃を受けつつも、最期まで寄り添い続けようと決意する江都。

 いよいよ終わりの時が近づいた弥子はこう語る。

「愛情ってさ、もしかしたら、捨てるかあげるかしかないのかな」

 愛は目に見えない。形にして証明することはできない。しかし自らが金塊となるのなら、文字どおり自分自身を与えることで愛を証明できると考える弥子。一方、それをむざむざ受けとってしまったら、自分は金目当てで彼女を愛したことになると煩悶する江都。互いに愛し合っているのに、愛の形が重ならない。

 現代社会において愛情と金銭はどこかでつながっている。私たちがどんなに否定しようとも、無難な言い方や表現などに置き換えようとも、愛と金はもはや分かちがたく結びついている。

 そんな世界でそれでも愛し合うとしたら、いったいどうすればいいのか――。その難問に著者は臨み、読む者の胸を締めつける結論に到達している。

文=皆川ちか

『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』作品ページ

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