遺書に「私は野球を憎んでいます」。稀代の天才投手、沢村栄治とはどんな選手だったのか

文芸・カルチャー

公開日:2021/3/24

沢村栄治 裏切られたエース
『沢村栄治 裏切られたエース』(太田俊明/文藝春秋 文春新書)

 日本プロ野球の歴史に名を刻む沢村栄治。年に一度その年の先発完投型投手に贈られる「沢村賞」の「沢村」のことで、プロ野球黎明期の伝説的投手だ。『沢村栄治 裏切られたエース』(太田俊明/文藝春秋)は、彼の足跡を辿るとともに、彼の投げる球のスピードが現在の一流選手と比べても同等以上だったのではないかと述べる一冊だ。

 当時の世界ナンバーワン打者、ベーブ・ルースを三振に追い込むという輝かしい記録を持つにもかかわらず、沢村栄治が活躍した期間はわずか2年弱。27歳で戦死した彼の人生とはどんなものだったのだろうか。

 栄治は、1917(大正6)年、三重県宇治山田市(現在の三重県伊勢市)に生まれた。兄弟が多いこともあり、家計は苦しかったという。おとなしい少年だったが、体格が良く運動神経は抜群。小学生のときに東京から赴任してきた若い教師の影響で野球を知ると、特に投手というポジションに夢中になり頭角を現していった。その後、実の祖父(父が沢村家に養子に入っているため戸籍上の祖父は別にいるが、以下、祖父で記す)の手まわしで、京都商業(現在の京都学園高等学校)に進学。沢村の実力なら当時の強豪校である平安中学(現在の龍谷大学付属平安中学校・高等学校)に行くのが当然と思われたが、京都商業から祖父にお金が渡ったのが進学の理由だ。

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 栄治は甲子園出場経験のない学校の一投手となったわけで、全国的には無名の選手。しかし、練習グラウンド内の栄治に、フェンスの外から目を留めた男がいた。慶應OBの腰本寿だ。彼は自ら熱心に個人指導にやってくるようになり、栄治の実力は全国クラスにまで伸びていく。

 ここで、当時の日本の野球について簡単に触れておこう。この頃は、野球といえば六大学野球が花形で、プロという職業野球はまだ存在していない。それでもというべきか、この当時、世の野球人気はたいへんなものだった。そこに乗ったのが大手新聞社。新聞社は、野球記事を掲載すると売り上げ部数が格段に上がることから、社自らが試合を企画し記事にするという流れができ始めていた。

 なかでも、正力松太郎率いる読売新聞社は、日本にも職業野球(プロ野球)を興し、米国大リーグの現役スター選手と戦わせるという大きな企画を進めていた。桁違いの大金が必要な企画だが、独占報道をすることで購読者数を伸ばせば元は取れるし、会社も大きくなるという目論見だ。

 そんな正力は、栄治を自らの企画に参加させるために、祖父と父に破格の金銭提供を持ちかける。一方、栄治はというと、腰本への恩義とあこがれから慶應大学進学を夢見ていた。だが、本人の意思はそっちのけで、栄治は日本初の職業野球チームの一員となるという結果になった。このチームをもって日本のプロ野球が誕生したわけだが、当時は海の物とも山の物とも知れない職業野球。友人らはこの進路を非常に心配したという。

 栄治が伝説を生んだのは、1934年11月、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックらを擁した大リーグ選抜軍が来日したときのこと。栄治はわずか17歳だった。他の投手がたち打ちできない米打線、しかもあのベーブ・ルースを三振に打ち取ったのだ。大リーグ選抜軍は余裕で大勝できると見込んでいた日本戦、しかも中学を出たばかりの少年から、打者を塁に一向に出せないことに青ざめ、闘志を燃え立たせたという。

 栄治の球は「ホップする快速球」だったといわれている。左脚を顔の高さまで上げ体全体をやわらかく使うフォームは、当時一般的だった上体に力を入れるフォームの中では異色で、これは現代のスポーツ科学の観点で見ても理にかなっている。球のスピードは、最近発見された当時の映像をデータ解析するに、少なくとも150キロには達しているという。

 その後の栄治は、読売巨人軍の投手として活躍するも、祖父の多額の借金の肩代わり、度々の徴兵で身体がぼろぼろになるなど、苦しんでいたようだ。生前、最後に父に宛てられた手紙には、「私は野球を敵のように思っています…にくんでいます…若い自由な時期を3年もしばられて、またその上にいろいろの事が起って面白くもありません」と書かれている。そして1944年、3度目の徴兵で、門司港からマニラに向かう輸送船に乗っていた栄治は、米国潜水艦の攻撃で戦死した。

 時代が時代とはいえ、周囲の人間に人生を振りまわされたといっても過言ではない沢村栄治。やるせない悲しみを知ると、彼の奇跡のような投球がより光り輝いて見えてくる。

文=奥みんす

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