豊臣秀吉は有能人材をスカウトする達人だった⁉ 知られざる戦国武将の“転職”事情/戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか①

文芸・カルチャー

更新日:2026/2/27

有能な武士を引き抜く

 戦国武将のなかで、最も多くの勇将をスカウトしたのは、間違いなく豊臣秀吉であろう。庶民出身ゆえ、織田信長や徳川家康のように譜代(代々、臣下として一つの主家に仕える家系)の家臣を持たない秀吉は、一から家臣団をつくらなければならなかった。長浜(滋賀県長浜市)城主になった頃から、秀吉は家族だけでなく親戚、さらに妻・ねねの一族まで、かたっぱしから家臣に取り立てていった。豊臣政権を樹立する頃には、彼らはいずれも自身の領地を持ち、大名へと成り上がっていた。だが、それでも部下が足りない。そこで手っ取り早く、諸大名の家臣団から有能な人材をスカウトしたのである。

 有名なのが、軍師の竹中半兵衛を迎えたときの逸話。劉備玄徳が諸葛孔明を迎えるに際し「三顧の礼」を以てした『三国志』の故事にちなみ、たびたび半兵衛のもとを訪ねては、部下になってほしいと懇願し、了承させたという。ただ、これは後世の『太閤記』などに出てくる話なので、信憑性に欠ける。

 史実として有名なのは、家康の重臣・石川数正の例だ。天正十三年(一五八五)十一月十三日、岡崎城(愛知県岡崎市)代(留守居)の数正が城から出奔し、秀吉のもとへと走った。石川氏は有力な徳川の譜代大名であり、数正は西三河(現在の愛知県中部)の旗頭、すなわち徳川正規軍の片翼を担う最高司令官だった。しかも、かつて織田・徳川同盟の締結に尽力し、今川家の人質になっていた松平信康(家康の長男)を取り戻し、長篠の戦いで織田軍の支援を取りつけた人物。まさに徳川一の功臣だった。

 翌日、家康は岡崎城へ駆けつけたが、すでに数正は妻子や家臣を連れて逃げたあとで、城はもぬけの殻だった。家康の動揺は激しく、不安だったのだろう、最前線の信州小諸(長野県小諸市)を守っていた大久保忠世に、すぐに戻るよう催促している。

 重臣の水野忠重も時を同じくして徳川家を去り、秀吉に臣従している。数正と示し合わせての行動だった。

<第2回に続く>

本作品をAmazon(電子)で読む >

本作品をブックライブで読む >

本作品をコミックシーモアで読む >

本作品をBOOK☆WALKERで読む >

あわせて読みたい

戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか (ポプラ新書)

試し読み *電子書籍ストアBOOK☆WALKERへ移動します