徳川家康が信頼した“インテリ”とは? 天下分け目の戦いを予測した知恵者の存在/戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか②
公開日:2026/2/28
徳川家康にとって唯一無二の存在
戦国大名は、とても孤独である。進む道を誤れば、御家の存亡に関わってくる。だから、はっきり指針を示してくれる知恵者を渇望していた。
実際、本多正信は武功らしい武功をあげたことはない。けれど、「その人となりは落ち着いて事に動じず、大胆で知略があり、はっきり本質を見抜いて思い切った決断ができる」といわれていたので、徳川家康も年を追うごとに深く信頼し、やがて「二人は水と魚のようだ」とか、「家康はまるで朋友のように正信に接している」といわれるようになった。家康にとって正信は、唯一無二の存在となったのである。
将軍になった家康は江戸に幕府(武家政権)を開いたが、たった二年で息子の秀忠に将軍の座を譲った。ただし、権力は譲らなかった。徳川の当主が代々将軍となって天下を支配するのだと、知らしめるのが目的だったからだ。ゆえに家康は大御所(将軍を引退した人の呼び名)となってからも、駿府(現在の静岡市中心部)に住んで江戸の幕府を動かしていた。
この時期の家康の側近は、ユニークな面々が揃っていた。成瀬正成、本多正純(正信の子)ら若手の官僚グループ、金地院崇伝や天海、林羅山ら僧侶や儒学者、そしてウィリアム・アダムス( 三浦按針)というイギリス人など、多彩な人びとが政策集団を形成し、さまざまな施策を家康に提言していた。
いっぽう、江戸城には、正信と大久保忠隣を筆頭に、酒井忠世、土井利勝といった三河の譜代大名たちが詰め、若き将軍・秀忠を支えた。このように徳川家臣団は駿府と江戸に分かれていたが、家康の指令は、正純を通じて江戸の父・正信に伝えられ、幕府の重臣たちに実行させるというルートが形成されていた。駿府と江戸で対立が起こらなかったのは、家康から絶大な信頼を寄せられていた正信の存在が大きかった。つまり、「正信の言葉=家康の意思」だと考えられ、秀忠や江戸の重臣たちは逆らうことができなかったのである。
私腹を肥やさない
このように、徳川家康の威光をバックに江戸で力をふるった本多正信だったが、彼の偉さは、その威勢を自分の利得のためでなく、すべては徳川政権の安泰のために用いたことである。一切、私腹は肥やさなかった。
先述のとおり、家康が関東に入国の際に一万石の大名に列したが、絶大な権力を持つようになっても石高は二万二千石にすぎなかった。正信を超える石高を誇る徳川譜代は大勢おり、なかでも井伊直政や本多忠勝、榊原康政などは十万石以上の所領を与えられていた。
もちろん家康も、正信に加増を打診していた。ところが正信は、「私は長年ご恩をこうむっています。いまの禄高でも生活は苦しくありません。一生食べていけます。それに、優れた武功があるわけでもなく、もう老人です。私に与える所領は、別の武功の臣に下賜し、軍備を増強してください」と固辞している。
実際、正信は日頃から質素な暮らしをしており、屋敷のつくりも粗末で、布団は木綿、衣装も簡素だった。他人から瓜や茄子などをもらっても、一つだけ受け取って礼を言い、残りはすべて返してしまったそうだ。
このように、あえて少ない石高に甘んじ、清廉だったからこそ、誰にでも忖度せず、思ったことを堂々と家康にも進言できたのである。
<第3回に続く>
