子どもはなぜ“怖い”絵本が好きなのか。「怖いと感じることは、子どもにとっても大人にとっても必要なこと」怪談えほん『どんな いえ?』【藤野可織インタビュー・前編】
PR 公開日:2026/5/27
さまざまなジャンルで活躍する創作者たちが、想像力を駆使して絵本を舞台に100年後の世界を描き出す「100年後えほん」シリーズ(岩崎書店)。
第3弾となる今回は、『爪と目』で第149回芥川龍之介賞を受賞した小説家・藤野可織さんによる『ぎんいろせいじんのやくそく』。さらに、怪談えほん『どんな いえ?』も同時期に刊行されている。テイストが大きく異なる2作品は、どのようにして生まれたのか。
前編では、怪談えほん『どんな いえ?』で表現した“怖さ”について伺った。
帰ってきたら自分の家がない。『どんな いえ?』で表現した“怖さ”
――2か月連続刊行された絵本『ぎんいろせいじんのやくそく』と『どんな いえ?』。あまりのテイストの違いに驚きました。100年後の未来を想像する「100年後えほん」と「怪談えほん」、シリーズが違うのであたりまえですが、『どんな いえ?』の怖さたるや……。

藤野可織(以下、藤野) 『どんな いえ?』のご依頼をいただいたのは2017年なのですが、紆余曲折あって、ほぼ同時期の刊行となりました。怖がっていただいて、嬉しいです。私自身が子どものころに怖かったことを書こうと考えて、思い出したのが「学校から帰ってきたら自分の家がない」という夢でした。わりと頻繁に観ていた夢で、帰ってきたら、敷地ごと住んでいたマンションがなくなって、草ぼうぼうの空き地になっているんですね。
――それは怖い。
藤野 道を勘違いしていたのかもと、入ったことのない店で聞いてみたり、あちこち道を曲がってみたりするんだけれど、やっぱりどこにもなくて最終的には途方にくれる。夢の中では、怖いというよりおもしろがっているんだけれど、起きてからどっと恐怖におそわれて。帰るはずの場所がどこにもないというのはすごく怖いことだという記憶が強烈に刻まれていたので、いつか書きたいと思っていたんです。
――絵本では、文章が一行二行で、余白が多いのも、すごく怖かったです。
藤野 子どもの頃から怪談が好きで、半泣きになりながら触れてきた経験があるので、「怖い」という感覚に対しては絶対的な信頼があります。言葉の多さとは関係がないというのもなんとなく知っています。むしろ言葉は少ないほうが効果的なこともあると思いました。
「ある」のに「ない」とされてしまったものを、この世に蘇らせてくれる“怪談”
――半泣きになりながらも魅了されたのは、どんなところですか。
藤野 世界の秘密に触れるような心地がしたんです。怖いけど、覗かずにはいられない。知りたいという欲求をおさえられない、みたいな。たぶん、みんながあたりまえに存在していると思っている社会の法則の、外側に潜む何かがあるということを感じとっていたんじゃないかと大人になった今は思います。この社会を回している法則がすべてではないのだという戒めと救いの両方を与えてくれるのが怪談なんじゃないでしょうか。
――ああ、だから、あるはずの帰る家がない、ということが恐怖になるわけですね。
藤野 そうです。法則から弾き飛ばされてしまった人、適合できずに軽視されているもの、あるいはその基礎をつくるために犠牲になってきた存在。「ある」のに「ない」とされてしまったものを、この世に蘇らせてくれるのもまた怪談だと思うんです。だから、何かを「怖い」と感じることは、子どもにとっても大人にとっても必要なんじゃないでしょうか。家が物理的に消えてなくなるのも怖いけど、安心して住めると信じていた場所が実は違った、と思い知らされることもまた怖い。とくに最近は、社会があたりまえとしている仕組みに恐怖を覚えることが本当に多いので、その想いもまた、本作にあらわれたような気がします。
――ぞっとしたのが〈あかるい いえ? すみずみまで てらしだされて、かくれる ところなんて ありは しない。〉というページ。孤独や暗闇も怖いけど、あたたかくて光り輝いているからって安心できるわけじゃない、というのが、まさに社会のありようと通じるなとも思いました。

藤野 一見、ポジティブなものも、ひっくりかえしたかったんですよね。家というのはただ住む場所というだけでなく、親をはじめとする家族を連想させるもの。とくに子どもにとって、家は自分を守ると同時に囲い込むものでもあります。親が良かれと思ってしたことが子どもにとって最善とは限らないし、これが正解だと思って選んだものが実はそうではなかった、ということもあります。そういう恐怖を次々と繰り出していけたらいいなと思いました。
「絵の力は絶大」「書きすぎないことが大事」
――文章だけでも怖いですけど、さかたきよこさんの絵がまた、ぞっとさせられることの連続なんですよね。
藤野 そうなんです。帰るべき家を見つけられない子どもが、大人になってもまだ、安心して信じられる家を探している。その筋立ては、私が書いたものですが、ディテールはすべてさかたさんが描きこんでくださったもので。大人になった主人公が、子どもの頃、最初にいた公園に戻ってしまうという展開も、さかたさんが考えてくださったんです。私が書いたのは〈さあ、きみはどんな いえに かえるの?〉でおしまいだったのですが、その先も描いてくださった結果、最後に「おかえり」という言葉を添えることができました。
――あの「おかえり」はすさまじく怖いですよね。
藤野 物語を完成させてくださったのは、さかたさんです。文章を書いたのがずいぶん前で、記憶に薄かったというのもあるけれど、ラフがあがってきたら、想像以上に格調高くおそろしい作品になっていて、驚きました。どの絵がいちばん好きかと聞かれると、見るたび変わるので難しいのですが、〈にわのあるいえ〉の見開きは一目見たときから大好きですね。室内であるはずなのに外、というイメージに昔から惹かれるので、怖いというだけでなく幻想的な美しさもあると思いました。
――イメージが的確に掬い取られていて驚いたところはありますか?

藤野 いい意味で、思っていたのと全然違う絵ばかりでした。こうなるだろう、と具体的に想像していたわけではないのですが、すべてが予想をはるかに超えるすばらしい絵でした。どのページにも侵食している、血管のように赤く太く枝分かれしている道も、主人公の姿や立ちすくんでいるたたずまいも私には見えていないものでした。でも、同時に、納得感もあったんですよね。ずいぶん前に『ぼくは』(藤野可織:文、高畠純:絵/フレーベル社)という絵本を書いたことがあって、そのときから絵の力のすさまじさを痛感していました。言葉を書きすぎず、絵に委ねるほうがいい絵本になるということは知っていました。『ぎんいろせいじんのやくそく』のほうも、100年後の未来なんてまったく想像もつかないので、わからないところはそのままにお任せしちゃったのですが、できあがったものを見て、ああお任せして本当によかったなあと心から感動しました。
取材・文=立花もも
