【第175回直木賞候補作】一度聞いたことは忘れない全盲の天才国学者、その葛藤の生涯を追う。裏切り、崇拝、数々の別れ――人の心の陰陽を繊細に描いた歴史小説『見えるか保己一』【書評】
公開日:2026/8/7

『見えるか保己一』(蝉谷めぐ実/KADOKAWA)は、全盲の天才学者・塙保己一(はなわ・ほきいち)の「葛藤の生涯」を描いた胸に迫る歴史小説である。
江戸時代後期を代表とする偉大な国学者・塙保己一は、幼少期に全盲となりながらも、天才的な記憶力で数多の功績を残し、その才能を認められた人物である。
物語は保己一の幼少期から始まる。病によって徐々に視力が落ちていく我が子を心配し、健気に尽くす母親のもとで育てられた保己一だったが、ついに盲(めしい)になってしまう。
だが「一度聞いたことは忘れず、一言一句違わず覚えることができる」という非凡な才能を有していた彼は、「常人には見えないものが見える」と評されるように。
青年となった彼は、学者になるという夢を叶えるため江戸へ。生来の素直さと、学問に対する生真面目さ、愛嬌のある性格で、周囲の人々の助けもあり、徐々に学者として認められていく。低い身分から将軍のお目見えが叶うほどの学者となった彼は、端から見れば全てを手にした成功者だろう。
しかしその一生は、信じていた人々からの裏切りや、周囲が自分を神聖視し過ぎるがゆえの愛憎、そして己の胸に巣食う「疑心暗鬼」に苛まれる、戦いの人生でもあった。
本作は偉大なる彼の生涯について、史実に沿いながらも「目が見えない」ことから生じる「心理的な葛藤」を克明に描きつつ、そんな「繊細な全盲の天才」を夫にした「妻」、父親に持つ「娘」、そしてその「婿」(保己一を崇拝している)など、彼の周囲にいる人々の愛憎入り混じる心情も、鮮明に綴られている。
盲目でも、そうでなくとも、誰もが「他人の心は見えない」
読んでいて不思議だと思ったのは、「なぜこれほどまでに全盲の保己一に共感できるのだろうか」という点だ。
彼は目が見えないことで、疑心暗鬼に陥る。もし弟子が自分をだまそうとして書物の内容にウソをついても、保己一は決して気づけない。口では「尊敬しています」と言う相手が、実は舌を出していても、彼は分からないのだ。だからこそ保己一は「もしかしたら」と疑い、不安になり、「家族しか信じられない」という境地に陥っていく。
多くの読者は保己一と同じ境遇ではないはずだ。なのにどうして、これほどまでに保己一の苦悩が理解でき、そして彼の苦しみを自分事のように感じて胸が苦しくなるのだろうか。
もしかしたらそれは、誰もが「人の心は見えない」からではないだろうか。
盲目でも、そうでなくとも、他者の感情は分からない。友人や恋人に対し「本当に自分は好かれているのだろうか?」と、一度くらいは疑った経験があるのではないだろうか。だから本作の保己一が抱える葛藤に、強く感情移入できるのだ。
更に言えば、読者が「なんとなく」感じていた、そういった類の不安感を、まざまざと言語化し、直視したくなかった感情を白日の下にさらけ出してしまう。だからこそ本作は、余計に胸を打つものがあるのだと思う。
人を愛する気持ちは尊い。これは人間の美しさだ。けれど、憧れや嫉妬で攻撃してしまうこともある。相手を偶像化し、愛してみたり憎んでみたりする身勝手さもある。これを人間の愚かさと言うのなら、本作は美しさと愚かさと、そして希望と絶望が入り混じり、それでも最後に小さな光を灯してくれる、「人の心の中の陰陽」というものを活写した物語だったのではないだろうか。
文=雨野裾
