“起業”という熱病に冒された人々を描く、小川哲の最新作『オルロージュ』。過去作『火星の女王』『地図と拳』との共通点を考察【書評】
PR 公開日:2026/9/30

断言しよう。小川哲氏の最新作『オルロージュ』(講談社)は傑作である。
本作は、スタートアップ企業を描いた経済小説である。
微生物研究者である倉敷秀斗は中学生の同級生であった桐田奈南からの連絡を受け、11年ぶりに居酒屋で再会。ベンチャーキャピタル(未上場企業に出資し、将来的な株式公開によって利益を得る投資会社)で働いていた桐田は、光合成の研究をしていた倉敷に、地球の温暖化に歯止めをかける「世界を変えるための作戦」として起業を勧める。
こうして倉敷が発案する、温室効果ガスを減らすことが可能な光合成するコンクリート「エンライトメント」の開発を目指すスタートアップ企業「オルロージュ」が誕生する。果たして若者二人から始まったオルロージュを中心に、資金調達、投資家との関わり、人材確保など怒涛の創業物語を、それに関わる多くの人々の視点を通じて描いていく。
「世界を変えたい」という創業者の理想と、それを「投資対象」として見る投資家の論理。業界に関わる人々の様々な思惑まで含めて描くことで、本作は一つの企業をめぐる一大群像劇になっている。
しかし、本作は主人公の若者二人が夢を語り、実現していく気持ちの良いお仕事小説ではない。この社会に変化を起こそうと理想を具現化する一歩である“起業”という熱病に冒された人々と、スタートアップ企業への出資がビジネスとして確立した現代の経済活動を描いた本作は、起業のエモーショナルな部分とその闇をも冷徹に語っていく。
例えば、錦糸町の小さなオフィスから始まったオルロージュはすぐに資金が底をつきかける。主力商品として謳う光合成コンクリート「エンライトメント」はまだ研究段階で、商品化のめどは立っていない。そんななかで運転資金の出資を得るために危機を乗り越えるくだりはスタートアップ起業の興奮を感じさせ、感動的ですらある。
しかし会社が急成長をしていくと、オルロージュの立ち上げの目的であった光合成コンクリート「エンライトメント」の開発よりも、資金調達の成功がエモーショナルなシーンとして繰り返されていく。いつからか起業の目的と手段が逆転しているのだ。
そして本作を読むうえで見逃してはいけないのが、キーマンとなる経済雑誌記者の若松の言葉である。
“お金というものは人類の創りだしたフィクションである。そのフィクションによって企業や起業家の価値というフィクションを決める。つまりフィクションがフィクションの価値を決定する。フィクションの価値を上げるためだったら人間は平気で嘘をつく。”
冒頭で登場するこの言葉は、本作に対して読者がどの視点を持つべきかのヒントを与えてくれているのだ。
本作を読み終えて感じるのは、ある意味虚構の存在である企業やお金の価値を信じ、その価値を自ら作り出しながら、いつしか自分自身がその価値に縛られていくという、現代社会そのものへの不快な手触りである。
また本作『オルロージュ』は、これまでの小川哲氏の長篇小説のエッセンスがちりばめられている。
「オルロージュ」が誕生するまでの運命のような偶然と出来事は、ガレージから始まったGoogleやアップルの創業神話として有名だが、こうした“始まりの神話”は、『火星の女王』でも語られているテーマである。また、企業の存続が目的になり、肥大するしかなくなっていく様は『地図と拳』で描かれた満洲国を重ねることができる。深掘りすれば、お金というフィクションの上で葛藤し、自縄自縛になる様は『ゲームの王国』における共産主義への視点をも思い起こさせる。
そして『君のクイズ』で感じた、疑問と謎の積み重ねが読書の大きな推進力となっている優れたリーダビリティは、本作『オルロージュ』ではさらに磨きがかかっているのだ。
『オルロージュ』は、神話が生まれる瞬間、巨大なシステムが自己目的化していく過程、そして人間が自ら作ったフィクションに縛られていく姿など、小川氏がこれまで描いてきたテーマと交錯する新たな代表作と言える。
文=すずきたけし
