「僕は自分で“ライブの場”を作らないといけない」。又吉直樹がオフィシャルコミュニティ『月と散文』を立ち上げた理由

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/20

やりたいことがいっぱいあるな、という感覚がある

又吉直樹

――『月と散文』ですが、中味について教えてください。「書き物」「自由律」「実験」とありますが、「書き物」はいわゆるエッセイということでよいですか?

又吉:エッセイ、散文ですよね。最近、エッセイを書いていなかったんで、それは日常的に書いていきたいな、と。エッセイをちゃんと書ける場所を作りたいというのが大きな理由ですね。

――まとまった量のエッセイを書かれるのは2013年に出版された『東京百景』以来だと思いますが、いかがでしたか。

又吉:「これどうやって書くんやったかな?」というのがまずあって。徐々に感覚を取り戻しつつあるんですが、たぶん、「実験」と区別しようと思いすぎると難しくなるんです。「自由律」にも毎回短文を付けているんですけど、それが短文で終わらずに長文になるから、「じゃあ、これをエッセイのほうに持っていこう」っていうこととか、コツがようやくつかめてきたので、今後うまくできそうですね。

――「自由律」はいかがでしょうか。

又吉:自分のこの十何年の活動を見返したときに、(コラムニスト・作家の)せきしろさんと自由律俳句の本を3冊出版したりと、定期的に自由律俳句を作ってきたんですよね。そのことによって、普段思ったこととか、風景だとか、「これ面白いな」と思ったものを記憶する装置になっていて、すごく助けられてきました。だから、自由律俳句も続けて、ちゃんとその機能を失わないようにしたいな、ということですよね。

――「自由律」を見ると、又吉さんが『東京百景』や『火花』で描いていた、世に出ることができない若者と同質の孤独や焦燥感を感じたんです。どこかでまだ又吉さんは「青春」のようなものを引きずっているような気がしました。

又吉:それ、自分でもちょっと思っていて。2回目の投稿で、「缶珈琲と手を繋いで夜更け」というものを書いていますが、なかなか感傷的というか、「やめとこうかな」と思ったんです。ちょっと若いかな、と。でも残したのは、若い頃に、1週間に1回新ネタをおろさないといけないみたいな時期があって。明日までにネタを作らないといけないのに思いつかなくて、「なんとか絞り出さなあかん」というときに、よく夜中にひとりで散歩してたんです。当時の「どうしよう」「でも絶対出さなあかん」っていう感覚に近いものを、「月と散文」をやり始めて思い出したんです。「あれ明日までか、ほな一回散歩行こうか」って。で、夜中ひとりで散歩しながら、「メッチャ懐かしいな、この感じ」と思いました。青春から一気に次のステージというふうにはならないというか、なんかそんな感じがありましたね。

――いまだに焦燥感があるんですか?

又吉:ありますよ、やっぱそれは。あります、あります。

――それは何に対しての焦りでしょうか。若い頃の不確かな未来に対しての焦りというのはわかるんですけど、現在の又吉さんは芸人としても作家としても人がうらやむような成功を収めていると傍からは見えるのですが。

又吉:いくつか理由はあるんでしょうけど、一番は「面白ければ売れる」と20代の頃に考えていたことなんです。ということは、売れていないという状況は「僕は面白くない」ということだったんです。でも心のどこかで自分自身のファンでもあるから、僕の作るものは面白いはずだと思ってたんですが、それをうまく表現できなかった。「面白いはずやのに面白くならない」、そこを行ったり来たりしていることへの焦りだったんじゃないですかね。

――いま感じている焦燥感の正体も「俺は面白くない」ということなんですか。

又吉:それですよ、たぶん。それにいまは「やり方一つ間違えたら、どんどん間違っていく」ということも知っているんで。「何を見て、どう考えて、何を作っていくか」というのはかなり重要だと思うんです。振り返ると「あのときこれをやっておけばよかったな」ということがあまりに多いので、後々になって無駄やったなということをできるだけなくしたいというのもあります。でも焦燥感みたいなものって、最初から機能として備わってしまっていて、発動するんじゃないか、という気もしますね。

――となると又吉さんはどんなに成果を上げても満たされるってことはなさそうですね。

又吉:ない……ですね。いつもより脳が開いてたなとか、普段思いつかないようなことが思いついたな今日は、と思うことはあるんです。それは誰かにとってはゴールじゃないですか、「あ、できた!」っていう。でもそれは普段と違う状態にいるってことだから、その調子のいい状態で思いつくことをやらないともったいないと思っちゃうんですよね。要は、ラッキーチャンス、ボーナスステージに入っている。いいライブができたとしたら、その夜は普段の自分よりいい状態にあるんだから、そのときに何かを考えないといけないんです。となると全出口が全入り口になってしまう。「よし、なんかいい感じやぞ!」と思ったらそのときに何かを立ち上げて積み重ねていかないといけない、そんなイメージがあるんですよね。

――最後に「実験」ですが、一番得体が知れないというか、エッセイあるいは自由律とどう違うんでしょうか。

又吉:1行でもいいし、「こんなことやってみたいな」という箇条書きが何個かあるとかでもいいというのが元々のルールです。思いついたことを書き留めておく、というのが「実験」なんですけど、今のところたまたま長文が続いていますね。

――ライブの『実験の夜』が果たしていた役割を後継するのが『月と散文』なんでしょうが、中でもそのテイストが色濃いのが、「実験」ということなんですかね?

又吉:『実験の夜』は100回を迎えて閉めたんですけど、「やりたいことができてないな」って不安を感じたんですよね。ならば文章の表現としてならできるかな、やりたいな、というのが「実験」ですね。でもね、ここの文章を書くのが一番楽、ということがわかりました(笑)。ライブをやめて何か月か経つんですけど、「実験」のところに書くテキストを書いてるときに「なんか、やりたいこといっぱい思いつくな」という感覚がありますね。

又吉直樹

――以前、「自分はもうすぐアイデアが枯れる、どうしよう?」っておっしゃっていたのを覚えているんですが、「いずれ書けなくなる」恐怖が常につきまとう方なのかな、という印象を持ってました。

又吉:恐怖心はいまだにありますよ。でもそれは、自分が思いつく間はいっぱい量産して、将来それを客観的に見てそこにあった発想というか芽みたいなものを50代60代になった自分がさらに面白くできるのかな、という期待でもあるんですけどね。

――若手でもなく50代60代でもない、又吉さんが今いる40代ってどんな感じですか?

又吉:これは考え方なんですけど、若い人ができる仕事を全く同じようにするのはちょっとずるいんじゃないかなと僕は個人的に思っているんです。だからちゃんと41歳の、自分の年齢にあった表現をしなければならないと思っています。29とか30歳くらいだったら、かろうじて「僕、下ネタ苦手なんです」とか言えてたんですけど、得意ではないですけど41歳で「下ネタ苦手」って言いたくないんですよね(笑)。それは20代くらいの、僕と同じようなマインドを持っている方に任せて、僕は苦手っちゃあ苦手ですけど、社会の仕組みとか考えたら、まあそういうこともあるよね、とか、そういう段階をちゃんと踏んでいきたいとは思いますね。

――又吉さんは恋愛小説においても、性的なことは書かずに来ましたよね。40歳を越えてそこを書くべき責任が生じてきた、ということなんですかね。

又吉:条件として、自分にそれを課すというのはいいかもなとは思うんです。これまでは性的な体験というのが自分の中でめちゃくちゃ重要かというと、もうちょっと重要なことがあるっていうふうに考えていたんで書かなかったし、それを語る必然性を感じなかったんです。僕は誰かのサービスのために書くのはイヤなんで、恋愛小説だから性的なシーンはあるべきやろ、と多くの人が思ってるから書こうとは僕は思わないんです。だけど必然性を持ったそういう場面を書くとしたら、どういう形になるのかと考えると、面白そうやなとは思うんです。一人称で語られる物語で、性的な部分が語られていたら、なぜその語り手は赤裸々に語るんだろうっていうことが僕は気になるんで、そういったことを全部クリアして、自分にとって重要なそういう場面を書こうっていう一つの枷としてやってみるとかは意義があると思うんですよね。

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――又吉さんの性的な描写は楽しみですね。

又吉:僕、下ネタがめっちゃ苦手なはずなのに、コントライブみたいなものを書くと10本中2本くらい、なぜか猥褻なネタができるんですよ。でも、みんながちょっと避けるような猥褻な表現をやれば面白いやろ、とは思ってないんです。要するに「下ネタって面白いよね」という意見には賛同できないんです。「面白い下ネタは面白い」っていうふうに考えているんです。なんか面白いことをやろうというときに、エロい表現や淫猥な何かが混ざってしまった、みたいな。それは自分では面白いものに向っていく途中に出てきたものだから、避けようがない。それで避けるのはちょっとあかんよな、と思うんで、得意じゃないけどやるんです。で、小説のときになぜ性的な描写を書かなかったかというと、僕の書く小説に登場する一人称の語り部の人格、ナイーブさがあまりにも強いからなんです。そんなナイーブな奴がなぜ自分の大切なパートナーとのことを語るのかという意味付けができないんですよね。自分の化身のような登場人物の場合、こいつはそれを語らないっていうふうに僕自身は思ってます。

――すみません、話がそれました。それにしてもこの文字量でこの濃密さで、しかも全カテゴリーを毎週更新ってものすごくしんどいと思うんです。なんでこんなに過酷なことを自分に課したんですか?

又吉:そうですね(笑)。でも僕としては結構楽しんでいて。もちろん大変な部分もあるんですが、それは「この日は仕事だから前日に書いておかないといけないな」とか時間のやりくりが大変なだけで。遅れることもあるんですけど、書くこと自体は楽しんでやれてるんですよね。

――今展開されている「書き物」「自由律」「実験」というジャンル以外で、これからやっていこうというものはあるんですか?

又吉:明言はしにくいんですけど、短編小説を書いて、それを『月と散文』の中で発表するというのは、どこかのタイミングで間違いなくやるやろな、って思ってます。それから、すごい短い話を一日一話書く、というのをいつかやりたいな、というのはずっと思ってます。でもそれだと一年間で365話になって、その膨大な文章を1冊にまとめるのはなかなか難しいのかな、どういうものになるのかなと思ったり。やっぱり本にしたい気持ちがあるので。でもそういう実験的なものも『月と散文』で試していけたらいいな、と思います。

あと、このコロナの状況が落ち着いてからになりますけど、お客さんを入れて「朗読会」をやりたくて。小さな会場でやるのが僕は好きなんですけど、それはやりたいなと思いますね。

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