「僕は自分で“ライブの場”を作らないといけない」。又吉直樹がオフィシャルコミュニティ『月と散文』を立ち上げた理由

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/20

“なじめない”感じを思い出させてくれる人が定期的に現れる

又吉直樹

――最後にちょっと意地悪な質問をさせてください。『月と散文』を立ち上げた以上、もはや文芸誌や新聞で連載することはないのかな、とも思ったんです。少なくとも文芸誌の人間にとっては、あまり歓迎すべきものではないんだろうな、と。

又吉:僕の思う文芸誌のあるべき姿とは、「実験的なことが許される、芸人の感覚で言うとライブみたいな場」なんです。ほとんどの芸人はライブでネタをおろして、直して、完成したものを大きい大会だったりとかテレビの番組で披露する。その何十万、何百万人の人に見てもらえるネタと、書籍にしてそれを文芸誌を読んでない人に見てもらえるというのは似てると思っているんです。その文芸誌が僕に関して言うと、ライブ的な機能は果たさないんだなっていう……。誰かにとっては有効だけど、僕は自分でライブの場を作らないといけないという気持ちですね。

――文芸誌をはじめ既存の媒体に対して、実験的なことを行えない不自由さを感じた、ということですか?

又吉:出始めの若手芸人に例えると、先輩たちが実験の場として使っているライブでも、すべったら二度と出られない、みたいなことですかね。あるタイプの作家は自由に書けるけど、めちゃくちゃ若手が何でもやっていい場所ではないんだな、ということはなんとなく感じていて。あと、思っていたよりも排他的なんですよね(苦笑)。“よそから来た人”みたいな扱いをちゃんと受ける。本来は繊細な感覚で、平等であることに価値を置いている言論の人たちのはずなんですけど、同一人物とは思えないほど「他ジャンル」として扱われてしまう。「なるほどな、ホームではないやん」って感じたときに、やらせてくれるならやるけど、頭下げて宜しくお願いします、というのは誰もやらんでいいし、自分もやりたくないんです。だったら自分でやったほうがいいのかな、という気持ちが大きいんですよね。

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――又吉さんは芸人として名を上げてから文芸の世界に来た方だから、やっぱり異物的な存在なのかもしれませんね。

又吉:「それが当然や」とも思ってるんです。誰かから個人的によくないことを言われたとか、誰かを恨んでるとかはないですし。でも、自分の“なじめない”感じをちゃんと思い出させてくれる人が定期的に現れるんだなっていう(笑)。小学生のときなんですけど、「なんでお前のYシャツだけ黄色いんや」みたいなことを言われたんですね。お姉ちゃんのおさがりだから、みんなのシャツは白いけど僕のは黄色いし、帽子も汚い。だから僕は妖怪とか怪人が好きなんですよ。「お前変なんや」って言われ馴れてるし、言われてきて今の自分になっているので、異物扱いされること自体はなんら問題ない。でも小説を書いて以降は芸人の中でも、それまでは「芸人」として扱われてきたのに、「お前、半分あれやもんな」ってなるんですよ(笑)。イソップ童話にコウモリの話がありますよね、鳥でもないし獣でもない、どっちや、っていう。どこに行っても、あの感じにちゃんとなってる(笑)。

――現在の文芸誌の在り方に、又吉さんは意義を見出しづらい、ということでしょうか。

又吉:僕は新潮新人賞の選考委員をやらせていただいていて、新しい人たちがデビューする入り口として機能も果たしていることだとか、一定数の読者が確実にいてくれていることとかは、すごく意義のあることだと思っています。でも、僕みたいなタイプの人間はどうなんかな、と。もちろん、僕の大好きな作家さん、めちゃくちゃかっこいいと思っている作家さんも文芸誌に書いていて、僕も文芸誌を買って読んだりしていますし、今も文芸誌は役割を絶対に果たしています。そう思うと同時に、「そうなん?」っていう……。「思ってたよりかっこ悪い世界なんかな」と感じることがあって。もっと作家とか、文芸に携わっている方々には「かっこつけていてほしかった」というのはちょっとありますよね。だから、文芸誌じゃなくて、自分だけの場所を立ち上げてやっていくということに躊躇がないのかもしれないですね。

――又吉さんはもう文芸誌では書かなくて、すべて『月と散文』で発表していく、ということなんですかね。

又吉:まだ迷っている感じですね(笑)。でも、自分の中で「これは本にしていいものや」と思えるクオリティの作品ができるのであれば、それは文芸誌であれ『月と散文』であれいいのかな、とは思ってます。逆に文芸誌に発表できたからといってそのまま書籍になるとは思わないし、「これは本にはならないですよ」って言ってくれる人がいるかもしれないというところが文芸誌のいいところだと思うんですよね。『月と散文』でも、自分でそういうことはできるのかな、していかないとと思っています。でもね、なんか安心しているのは、「結局、面白くない人や場が淘汰される」と思ってるんです。面白い芸人が面白いことをやっている劇場には人が入るし、つまらなかったら伝統があっても人は入らない。相撲も歌舞伎も人が入っているのは、やっぱり面白いからなんでしょうね。小説家も小説家という看板だけでは無理ですけど、でもスペシャルに面白い小説家は絶対に読者がつく。面白い人は絶対読まれ続けるんで、それでいいのかな、と思います。

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