宮部みゆきが誘う、人の心のダークサイド 怖い絵本ブームの原点となった1冊

文芸・カルチャー

2019/7/20

『悪い本』(宮部みゆき:作・吉田尚令:絵・東雅夫:編/岩崎書店)

 ここ数年、夏になると書店の棚を賑わせている“怖い絵本”。そんなブームの火付け役こそ、2011年に刊行スタートした岩崎書店の「怪談えほん」シリーズである。

「良質な本物の怪談の世界に触れてほしい」(シリーズ企画監修者・東雅夫の言葉)との思いから誕生した同シリーズは、京極夏彦ら当代の人気作家が子供たちのために本気で怪談を書き下ろす、という取り組みにより好評を博している。先日も俳優・佐野史郎によるシリーズ最新刊『まどのそと』が発売されたばかりだ。

 今回取りあげる『悪い本』(宮部みゆき:作・吉田尚令:絵・東雅夫:編/岩崎書店)は、2011年10月に刊行された、同シリーズの記念すべき第1弾である。『模倣犯』『ソロモンの偽証』など多くのベストセラーで知られる宮部みゆきが文章を手がけた『悪い本』は、そのショッキングな内容が評判を呼び、今日まで版を重ねるロングセラーとなった。

はじめまして
わたしは 悪い本です

『悪い本』はそんな1文で幕を開ける。本による“一人称語り”という珍しい視点をとった作品だが、それが読者の内面に直接囁きかけるような、巧みな効果をあげていることにまず注目したい。「悪い本」は、この世の悪いことをいちばんよく知っている本。そんな本、自分には必要がないとあなたは思うかもしれないが、想像してみてほしい。

 もしあなたが誰かを嫌いになったり、何かを消したくなったりした時、目の前に「悪い本」があったら。思わず手に取りたくなるのではないだろうか? いやいや、きっとそうに違いない…。シンプルに研ぎ澄まされた宮部みゆきの文章は、まるで催眠術のように、読者の心の底にじんわりと染みこんでくる。

 この絵本は本当に恐ろしい。なぜなら究極の悪ともいえる存在(=「悪い本」)がわたしたちの外側ではなく、内側にあることを明らかにしているからだ。その存在を忘れることはできても、消し去ることはできない。いつの日か、ついそのページを開いてしまう時が訪れるかもしれない。そんな人間の危うさが、はっきりと描き出されているのだ。

 吉田尚令による絵が、その怖さに拍車をかける。作中で主に描かれているのは、本来愛らしいはずのクマのぬいぐるみやサルの人形。しかしページが進むにつれ、その表情はまがまがしさを増し、直視できないほど恐ろしいものに変貌してゆく。住み慣れた世界が、恐ろしいものに変わってゆく不気味さ。想像力を刺激する文章と絵の相乗効果で、後半はページをめくるのがためらわれるほどだ。

 読者の中には「わざわざそんな怖い本を読みたくない」「子供に読ませたくない」という方もいるかもしれない。しかし自分の心に潜む邪悪さをまったく意識せず大人になることの方が、本書の何倍も恐ろしい。この世のどこかでわたしたちをじっと待ち続ける「悪い本」の存在を感じておくことは、生きるうえで大切な経験だと思うのだ。

 国民的作家・宮部みゆきが、人間のダークサイドにあらためて向き合った『悪い本』。子供も大人も一度は読んでおきたい、怖い絵本の傑作である。

文=朝宮運河