聖なるものと俗なるものが同居しているトイレは「生活のすべて」が含まれる―日本トイレ協会会長・高橋志保彦さんインタビュー【前編】

社会

更新日:2015/10/15

トイレ学大事典』(日本トイレ協会編/柏書房)

 人間の三大欲求は「食欲・性欲・睡眠欲」とよくいわれるが、これらは毎日必ずしないとすぐさま体に異常を来すことではない。ところがこれ以外の「欲求」で、毎日必ずしないと命に関わってくることがある…それが「排泄」だ。人間は1日に5、6回トイレに行くが、トイレの重要性には少々無頓着といえる。それは排泄に偏見があったり、あまりにもトイレについて知らなかったりすることが原因ではないだろうか。そこでトイレに関することを網羅した『トイレ学大事典』(日本トイレ協会編/柏書房)を今年上梓した、日本トイレ協会の高橋志保彦会長にお話を伺った。

    日本トイレ協会 高橋志保彦会長

トイレとは「学問」だ!

 B5判の大きなサイズ、重さは1kg超、全418ページという『トイレ学大事典』。日本や世界のトイレの歴史、排泄に関する医学的・科学的な考察、民俗・哲学・宗教・心理学・法律との関係、都市や環境、観光、災害などとトイレの関わり、建築やデザインからの見解など、トイレに関するありとあらゆることが詰まった(もっともトイレは詰まってはいけないものだが)、読み物としても楽しめる本だ。

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「これまでも単発的にトイレについての本はあったんですが、それじゃ面白くない。僕は『トイレとは学問だ』とずっと言ってきたので、各方面の専門家に書いてもらって、“これぞトイレ学”という事典にしたかった。トイレって、分野が幅広いんですよ。人間の生命に関わる排泄行為、そのための器具、建物、空間など、生活のすべてが含まれるもので、それを一冊で網羅しようと思ったんです。人生80年とすると、トイレには約20万回行くんです。期間にすると、延べ11カ月もトイレに入ってることになる。そのくらい重要なものなのに、今まで科学的にメスを入れてこなかったんです」

 本書の作成にあたり大枠となるコンテンツを決め、専門家への執筆依頼をしたという高橋会長。中学生が辞書として引いて読める内容にしたいという思いから、論文のように難解になりがちな内容を平易にするため、原稿を下読みする査読調整委員を作って丁寧に作業を進め、完成までに2年半を要したという。

「排泄物って“究極のアイデンティティ”なんです。自分のものであれば、ある種いとおしい。しかし人のものにはこれほど嫌なものはない、汚いというイメージが常にあるから、トイレを嫌がる人はたくさんいるんです。だけどもトイレは清潔にしておかないと大変なことになる、という恐怖感が常にある。なので『嫌なもの』と思うとどんどんダメになるけど、『より快適にしよう』とすると良くなっていく、というのがトイレの特性で、聖なるものと俗なるものが同居しているんですよ。ならば嫌がるのをやめて、どうせ排泄するなら良い環境で気持ちよくした方がいい。トイレって嫌なものとして隠しておくと、人間の知識や知恵から遠ざかっていくものなんです。それはまずいことだ、というのが僕の哲学だから、恥ずかしいと思わずに、もうちょっとトイレのことをオープンにしていいんじゃないかと。昔は『トイレが汚い、臭いのはしょうがない』と思って行ってたけど、トイレ協会が発足してこの20~30年くらいでだいぶ変わりました。今はキレイになって、スイスイ行くものになりました(笑)」

 日本トイレ協会は1985年に発足。建築家やメーカー、大学教授など各方面のスペシャリストたちが集まって「トイレ文化の創出」「快適なトイレ環境の創造」「トイレに関する社会的な課題の改善」を目指し、非営利の任意団体として活動している。

「動物は便をする時に肛門が脱肛して、ポンと便が出た後にシュッと戻るから拭いたりする必要がないんです。でも人間は二足歩行をしたからそれができなくなった。その代わりにトイレで用を足すようになったんです。食べ物が口という入り口から体の中に入って消化され、出口として最初に出てくるところがトイレ。つまり排泄というのは、人間の体の循環を担っているものなんです。排泄は神様の作った最高傑作の行為のひとつ、とても大事なことなんです」

日本は今こそ「世界のトイレ文化」を知るべき

 1958年、大阪の関目第一団地に設置されたことが近年の日本における洋式水洗トイレの普及の始まり(ダイニングキッチンのとなりにトイレを設置しなくてはならず、臭気の問題を解決すること、主婦が老人の面倒を見る際の負担を軽減するなどの目的から設置された)であり、現在の全国の下水道普及率は77%、それ以外の場所でも浄化槽などを使用し、一般家庭の水洗トイレの普及率は90%を超え、すでに100%に近い状態という。

「汲み取り式が水洗になったのは、戦後の日本で急速にインフラストラクチャーが整備されたということ、つまり経済力、科学力が上がった証拠なんです。今では温水洗浄便座の普及率は全世帯の7割を超えています。こんなに快適なトイレ環境って、歴史上ないんですよ。日本でトイレがこれだけ発達したのにはいろいろな要素があります。日本人はもともと食物繊維に富む食事をとっていたから、便の量が多く、柔らかい。だから丁寧に紙で拭かないといけない民族なんです。しかも清潔好きで、痔が多い。じゃあ水で洗った方がいいと考えた。そこにアメリカで開発された医療用の洗浄便座があって、それを輸入して発展させたんです。しかも海外と違って、トイレと風呂場が別だったため、水に弱い電気を使うことができた。インフラが整っていたこともあった。こうした複合的な理由から独自の発達をしたんです」

 ところがまだ世界では約25億人、全人口の1/3がトイレで用を足していないという事実もある。

「その国の文化、彼らのやり方がいいのか悪いのかは一概には言えないんです。でもトイレがないことで、病原菌やウィルスが撒き散らされるのであれば、撲滅しなければならない。今は世界の交通、移動手段が昔とは違うわけですからね。だから今後は航空機内のトイレや空港のトイレが今よりも重要になってくるかもしれないですね。トイレに病原菌やウィルスを検査できる機能があれば、水際で食い止められるようになるかもしれないですから。それから別の面ではインフラのことがあります。インドなどでは排泄物を肥料にしているんですが、そうなると水洗トイレが一番いいなんて簡単には言えない。なのでまず排泄物を拠点で集めて肥料にするというインフラが必要になるけど、それにはお金がかかる。いろいろと難しいんです」

 トイレの文化がどれほど違うか、それは本書を読むとよくわかる。例えば日本人ならトイレの後にどうお尻を始末するか聞けば、ほぼ全員が「紙で拭く」(洗浄便座で洗ったとしても最後は紙で拭く人が多いはずだ)と答えるだろう。ところが世界は広い。「指と水・砂」「小石」「土板」「葉」「茎」「とうもろこしの芯・ヒゲ」「ロープ」「木片・竹べら」「樹皮」「海綿」「布切れ」「海藻」「雪」「棒切れ」「苔」などなど、日本人ならば「ええっ!?」と驚くものがたくさんあるのだ。

「モスレムの人たちは左手で処理をするので、イスラム圏のトイレには必ず手を洗うホースがついてるんです。しかし日本にはない。以前、アジア大都市ネットワーク21の会議で来日したクアラルンプールの人たちに聞いてみたところ、温水洗浄便座はとても便利でいいけれど、できたらトイレの中にウェットティッシュを置いておいてほしいと言っていました。やはり左手で処理をして、手が洗えないなら最後にはウェットティッシュで手を拭きたいそうなんです。2020年の東京オリンピックで多くの外国人が来日することになる日本は、今こそトイレ文化についてしっかりと知らないといけない。他の文化、そして相手を知らないといけないんです。それにトイレというのは人が集まる所に必ずあるもの。逆に言うと、人が集まるためには必ずトイレが必要なんです」

後編】ではさらにトイレの奥深い話、そして近年日本で多発する災害時のトイレ事情なども伺います。

取材・文=成田全(ナリタタモツ)