ピアノの調律に魅せられた青年を通して描かれる、生きることの意味と歓び【2016年本屋大賞ノミネート『羊と鋼の森』(宮下奈都)】

文芸・カルチャー

公開日:2016/2/29


『羊と鋼の森』(宮下奈都/文藝春秋)

羊と鋼の森』(宮下奈都/文藝春秋)はTBSの情報番組「王様のブランチ」で紹介されて話題となり、ブランチブックアワード2015において大賞を獲得した作品である。さらには、直木賞の候補作となり、現在、本屋大賞にもノミネートされている。2015年を代表する作品のひとつと言ってよいだろう。

 この作品で描かれているのはピアノの調律師の世界だ。ピアニストが主人公の作品は数多くあるが、調律師とはいささか珍しい。小説の素材としては地味でさえある。しかし、宮下奈都氏の透明感のある文体は、調律師がピアノに魂を吹き込む姿をまるで音楽の演奏のように美しく活写している。本書を読めば、ピアノの調律師に対するイメージが大きく変わるだろう。それほどまでに、この作品で描かれている世界は魅力的だ。

 主人公の外村は山奥の村で育ち、何事に対しても執着心の薄い少年だった。ところが、高校2年の時にピアノの調律師である板鳥に出会い、その仕事ぶりにすっかり魅了されてしまう。その瞬間、ピアノをまともに弾いたことさえない彼は、調律師の道を進むことを決意する。専門学校を卒業すると、外村は板鳥の勤める楽器店に就職し、ピアノの調律師としての一歩を踏み出していく。思うような仕事ができない自分の未熟さに悩みながらも、彼は前に向かう足を止めようとはしない。よい先輩たちに囲まれ、さまざまな客との邂逅の中で、外村はピアノの調律師として成長を遂げていく。

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 この作品が読者の胸を打つ理由のひとつに主人公の生きざまがある。彼には並はずれた才能があるわけではない。如才なく物事を対処していく要領の良さも持ち合わせていない。理想と現実のギャップに対しては常に悩んでいる。しかし、その一方で、自分がピアノの調律師として、これからも生きていくことに対しては毛ほどの疑いも持っていない。結果がでないことはつらいけれど、調律にかける努力自体は、全く苦労とは思っていないのだ。

「努力の天才」という言葉があるが、主人公の場合がまさにそれだ。しかし、そこには同時に、天職に巡り合えた幸運が存在する。世の中、労働にいそしんでいる人間は星の数ほどいるが、今の仕事に就けてよかった、これ以上のものは考えられないと心の底から思えるケースはほんの一握りだろう。もし、世の中の人間全員が天職と思える仕事に就くことができたならどれだけ世の中は輝いて見えるのか。そう考えると、主人公とピアノの調律との運命的な出会いは、大冒険や熱烈な恋愛物語よりも、胸に染み入ってくるのだ。

 この作品には主人公の他に、ヒロイン的存在として、双子の高校生姉妹の姉・和音(かずね)が登場する。ピアノの才能に恵まれているものの天才肌である妹の陰に隠れがちで、ピアノを演奏する意義を見失いかけている少女だ。しかし、そんな彼女がある事件を経て、ピアノを生涯の職にすることを決意する。この場面もまた、自分の進むべき確固たる道を歩み出した瞬間であり、主人公と調律の出会いのシーンと協奏を成して、読む者の心に響いていく。

 人生は右も左も分からない荒野のようなものだ。しかし、そこに道を見出したものだけが、世界と自分が調和していることを感じることができる。この作品の主人公の場合、それが調律師としてピアノの音を追い求める道であった。そこをどこまでも進んでいくことで、彼は多くの人々と知り合い、彼らを理解し、世界に対する認識を広げていく。ヒロインの和音もまたしかり。もちろん、主人公の頼れる先輩たちもそれぞれの道を見出し、歩み続けている。

 この作品では、信じるに値する道に至り、そこを一歩一歩前に進んでいく人生の素晴らしさを美しい音色に乗せて、あくまでも穏やかに説いていく。優れたエンターテインメントであると同時に、人生の岐路に差し掛かった時に思わず読み返したくなる含蓄に富んだ物語でもある。

文=HM