「君が代」を歌うべきか排除すべきか 肯定論でも否定論でもない新しい“第三の道”の提唱

社会

公開日:2015/10/11

『ふしぎな君が代  (幻冬舎新書)』(辻田 真佐憲/幻冬舎)
『ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)』(辻田 真佐憲/幻冬舎)

 毎年の入・卒業式や、オリンピックを筆頭とするスポーツの世界大会があるたびに議論を巻き起こす、国歌「君が代」。保守派とリベラル派が賛否の矢玉を浴びせ合うさまにうんざりした少なからぬ人は、「君が代」を「面倒くさい歌」と感じているかもしれない。

 主に、「君が代」肯定論者は「国歌であるから批判せず歌うべきだ」と主張し、否定論者は「軍国主義を煽った歌なのだから排除すべきだ」と口角泡を飛ばす。両者が譲り合いそうな気配はない。「面倒くさい歌」という不名誉な呪縛から解き放たれるべく、肯定論とも否定論とも異なる“第三の道”を提示するのは、『ふしぎな君が代』(幻冬舎)の著者で近現代史研究者の辻田 真佐憲氏だ。

 本書では、まず、「君が代」が公立学校の入・卒業式やスポーツの世界大会での斉唱くらいにしか話題にならないことを問題にしている。もともとは「お上」から性急に下りてきたものであったとしても、民主国家を標榜する現日本では、国歌はすでに国民のもの。国歌のオーナーである日本人が、当事者として「君が代」の意味や歴史に無関心なことが、「面倒くさい歌」たらしめていると指摘している。わたしたちは、「君が代」をどれほど知っているのだろうか。

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 本書によると、そもそも「君が代」は、世界的に見ても“ふしぎな国歌”だという。通常、国歌は近代国家の形成とともに作詞されている。例えば、フランス、英国、米国、ドイツ、イタリア、ロシア、韓国、台湾、中国、北朝鮮などの国歌は、すべて18世紀以降に作詞されているのだ。また、フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」の詞に「武器を取れ市民よ…」とあったり、米国の国歌「星条旗」に「ロケット弾の紅炎も、空に轟く爆音も…」とあったりするように、国歌の歌詞は時に過激であるという。対して、「君が代」の場合は千年以上前の古歌にさかのぼり、国歌の歌詞としては世界最古。当然、近代ナショナリズムやイデオロギーの影響もなく、世界的に見て極めて平和的なものだ。

 そもそも、「君が代」が生まれた経緯がユニークだ。諸外国のように意気込んで新しい歌詞を用意するのではなく、もともとあった古歌を選んだ背景は諸説あるが、本書では次のような有力な一説が紹介されている。時は1869(明治2)年、世界を周遊していた英国王子が日本に立ち寄り、明治天皇に謁見することになった際、英国陸軍から「外交儀礼として、英国の国歌とともに日本の国歌を演奏したい」という申し出があった。日本としては、国際社会に開国をアピールするまたとないチャンス。

 しかし、当時の日本には、国歌そのものどころか“国歌という概念”すら存在しなかった。そこで急場しのぎの対応として、日本文化に根付いて庶民に長く愛されており、江戸時代に将軍家大奥の元旦儀式で将軍を讃える歌として使われていた古歌の「君が代」が、まず歌詞に立てられる。同時に、曲は、鹿児島で愛唱されていた琵琶歌「蓬莱山」の一節が用いられることとなった。結果的に、紆余曲折を経ながらもこれが今日の「君が代」の原型となり、1999年に成立した「国旗国歌法」(国旗及び国歌に関する法律)で、法律上でも正式に日本の国歌として定められた。

 ご存じのとおり、「君が代」が議論される点に、歌詞の「君」が単に「あなた」なのか、「天皇」なのかという解釈の違いがある。「君」の意味は昔から「天皇」でないと「君が代」の権威が傷つくと恐れるかのように証明しようとする側、そして現在の「君が代」の正統性を否定する突破口として「君」が「天皇」を意味しないと指摘する側。本書では、「君が代」誕生の歴史をひもといた末、千年近く「あなた」の健康長寿を祈っていた古歌が、国歌に選ばれたときに「天皇」のみを讃える歌へと変貌したと結論付けながらも、「君」の解釈に躍起になる両サイドとも視野が狭いと主張する。例に挙げられているのは、日本が見本にしたといわれる英国国歌。誕生当初はいちロンドン王室の正統性を主張する歌であったが、産業革命後、世界帝国へ躍進するにつれて、スコットランドを含めた英国全体を代表するものへと変化していった。国歌の意味は、時代を追って変化する。「君が代」もまた然り。そして、これからの「君が代」の意味をつくっていくのは時代であり、オーナーである日本人一人一人なのである。

 ところで、「君が代」は「日の丸」と並べて語られることが多いが、本書いわく、両者の間には無視できない違いがある。すこし古い調査だが、こういうデータがある。1985年に『朝日新聞』が行った世論調査によると、「日の丸」が国旗としてふさわしいと答えた人の割合は86%。対して、「君が代」が国歌としてふさわしいと答えた人の割合は68%にすぎなかった。「日の丸」掲揚に比べ、「君が代」斉唱のほうが抵抗感が示される、というのは、現在でも通じるように思える。軍国主義に利用された点で、「君が代」も「日の丸」も変わらないはずだ。

 本書は、ここに「君が代」問題の本質を見出す。あらためて考えてみるとわかるが、「日の丸」掲揚は“見る”ものであり、「君が代」斉唱は“歌う”ものである。掲揚は「目をつむる」「視界に入れない」「別のものを見る」「別のことを考える」などの行動でやり過ごすことが比較的容易だが、斉唱は「歌詞を頭に入れ」「音程を外さないように注意しながら」「周囲とも協調しつつ」「腹に力を入れて」「一言一句、声を出す」ことが強いられる。この強制力は、掲揚よりも全身に行き渡り、やりたくない人にとっては非常に屈辱的で暴力的なものとなってしまうという。

 さて、やっと冒頭に示唆した、「君が代」肯定でも否定でもない“第三の道”の紹介である。それは国歌を“歌う”ものから“聴く”ものへと変えること。“聴く”という行為は、“歌う”ことに比べれば、それほどの抑圧感はもたらさない。実際、多くの日本人にとって、「君が代」は「聴く国歌」になっている。世界の国々を見ても、公式の歌詞がないケースや、歌詞があっても歌わないケースがあり、国歌を歌わなくても特に国際儀礼上の問題などはないという。

 確かに、急速に日本の近代化を推し進めた要因の一つは“歌う”ことで得られる一体感だが、心身に大きな束縛感ももたらす。「『君が代』斉唱」ではなく、「『君が代』演奏」もしくは「『君が代』放送」に。これが、多様な価値観に寛容な社会と「君が代」を両立させる唯一の落としどころではないか、と提唱している。

文=ルートつつみ