【芦沢央】人はなぜ一線を踏み越えるのか? イヤミスの名手は殺人犯の“普通の1日”を想像する。新作短編集『あなたが正しくいられたとき』インタビュー

文芸・カルチャー

公開日:2026/5/22

犯罪は他人事ではない。その人が一線を踏み越える力点が存在する

――とんでもないことがありえる展開や動機は、どう構成していくのでしょうか?

芦沢:たとえば殺人を犯す登場人物がいるとしたら、その人が殺人を犯さない1日を書いてみるんですよ。小説内で登場するエピソードは殺人を犯す瞬間だけでも、それはその人にとっては何十年と生きているうちの一瞬に過ぎなくて、非日常なんですよね。その非日常について考えても、なぜそこの一線を踏み越えてしまったのか?という答えはわからないんです。

 たとえば、朝その人が起きて、カップスープを飲もうとする。粉末にお湯を入れすぎてしまった時に、不味いと思ってバシャって捨てるのか、薄いけどしょうがなく最後まで飲むのか、もう1袋入れて濃くするのか、その行動だけでも、その人がどういう人なのかが見えてくるんです。そういう、その人の何もない1日について20枚ぐらい書いてみて、わかったらそれを捨てて、本編を書き始めます。

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――その理解が、物語の分かれ道でどういう決断をしてしまうのかという基準になるわけですね。

芦沢:そうですね。私自身も、罪を犯す人のことを他人事ではないと思うんです。私が今、罪を犯さないでいられるのは運がいいだけであって、いろんな要因から、ストンって背中を押されたり、グイッて腕を引っ張られたりしたら一線を踏み越えてしまうかもしれない。だから、その力学がその人にとって一番作用する力点はどこにあるのかを、日常の行動や困ってることとか、コンプレックスで探っていくんです。

――だから芦沢さんの小説に登場する人の行動は特異に見えても、必然的だと感じたり、自分事のように感じられたりして怖いわけですね。

芦沢:そう言っていただけると嬉しいです。読者の方からは、「自分に経験のないことのはずなのにフラッシュバックする」とよく言っていただけるので、ありがたいですね。

「諦め方がわからない」という夢の怖さ

――「投了図」は、将棋のタイトル戦が行われる街を舞台にしたお話ですが、芦沢さんはこれまでも将棋小説を書かれてきて、将棋をテーマに作品を書く面白さをどう感じていますか?

芦沢:棋界には、26歳までにプロにならないと退会しなければいけない奨励会というシステムがあって。私自身、小説家になりたいと思ってからデビューするまで12年かかっていて、諦め方がわからない「夢」の怖さを、将棋を通して考えたのが、興味を持ったきっかけです。将棋を題材にするために、将棋教室に通って、棋戦をひたすら見て棋譜を並べてということをやっていたら、「将棋、面白い!」と驚いて。今って、みんな間違えたくないし、少し失敗したら炎上して追放されてしまう時代じゃないですか。間違えたくないから選択を表明しないのが無難という中で、自分の頭脳だけで選択を繰り返す棋士の姿が私はすごく好きで、小説に関係なく将棋を見るようになりました。

 この「投了図」は、コロナ禍での取り返しのつかないことで悔しい思いをしている人がたくさんいるんだろうなと思って、投了図をテーマにしました。将棋って、勝てないとわかってから、「形作り」といって一手違いの綺麗な局面を作ってから投了するんですよね。一手一手、少しずつ自分の負けを飲み込んでいく時間が好きで、それと物語の状況が共鳴するのではないかと思いました。

――「薄着の女」と「待てば無料」は、警察官バディが登場するミステリー短編ですが、このお話はどのように作っていったのでしょうか。

芦沢:「薄着の女」はリアリティラインが私の他の作品とまったく違います。元は複数の作家が同じ、糸を使って密室を作るというトリックで小説を書くというアンソロジー企画で書いたのですが、そのトリック自体が、私の小説のリアリティラインでは書けないんですね。それなら、なぜ糸を使うんだという、その「なぜ」のところをトリックにすればいいと思ったんです。

 警察官2人のキャラクター造形も意図的に書き方を変えていて、私の小説にしてはかなりキャラが立っています。「どうした芦沢!?」っていう書き方自体が伏線になっていますね(笑)。「待てば無料」は、「薄着の女」とつながっていて同じバディが登場しますが、「できる得をしないのは損だ」という価値観に対する私の関心を加えました。お金を出して小説を読まなくても、無料で楽しめるものがたくさんあるし、映画だって倍速で観ればいいという考え方を前提に、ざわっとする苦みのあるラストを書きました。

――キャリアを重ねても挑戦を続けていらっしゃいますが、今、一番関心のあることは何ですか?

芦沢:ここ数年は、やったことのないジャンルや書き方に挑戦して修行をさせてもらったので、今年、来年は、今まで持ってこなかったシリーズものをやりたいです。ここ数年で身につけた筋力を使って、できることの飛距離を伸ばすことに挑戦する年にしようと思っていますね。

取材・文=川辺美希、写真=後藤利江

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