日本製紙はいかに復興を遂げたのか? 話題のノンフィクション『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている』が描いた奇跡

社会

公開日:2014/7/24

 マンガ、ファッション雑誌に文庫本…。昨今、電子書籍の話題が騒がしいが、それでも周りを見渡せば、数多くの紙で作られた出版物に囲まれて暮らしていることがわかる。でも、その紙の多くが日本のどこで作られているか、あなたはご存じだろうか。そしてその場所が未曽有の大惨事に見舞われた後、奇跡の復興を遂げたことを知っているだろうか。

 佐々涼子『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』(早川書房)は東日本大震災で壊滅的な打撃を受けた日本製紙石巻工場が、わずか半年で再稼働するまでに至った経緯を追ったノンフィクションである。

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 宮城県石巻市にある日本製紙石巻工場は、年間で約100万トンの紙を生産する世界屈指の規模を誇る製紙工場である。日本製紙はこの国の出版用紙の約4割を担っている会社であり、石巻工場はまさに出版業界にとっての要といえる存在なのだ。

 書籍用紙・文庫用紙・コミック用紙など様々な出版用紙を生産する巨大マシン、8号抄紙機のリーダーである佐藤憲昭はこう言う。

 「8号が止まるときは、この国の出版が倒れる時です」

 その「出版が倒れる」かもしれない危機が、本当にやって来た。2011年3月11日、巨大地震により発生した大津波が敷地の南側にある太平洋岸、西側の工業湾、東の旧北上川という三方から押し寄せ、工場を呑み込んでしまったのだ。石巻市では死者3169名、行方不明者793名という、とてつもない数の犠牲者が出たものの、日本製紙の従業員は山に避難し、奇跡的にも1306名全員が一命を取り留めていた。

 しかし、工場の受けた被害は甚大なものであった。電気設備のある一階部分は水浸し、工場の外壁を囲む特別高圧電線は電柱とともに引き倒され、あとかたもなかった。

 石巻工場を再生させるのか、それとも閉鎖するのか。

 会社のトップである芳賀義雄社長は「自分の目で見て判断することが肝心だと」と思い、震災から2週間の石巻工場に降り立つ。工場の持つ世界最大級の生産マシン、N6マシンの具合をみた芳賀は微笑みながら「これなら大丈夫そうだ」とうなずく。そしてクラブハウスに集まった従業員たちに向かって宣言した。

 「これから日本製紙が全力をあげて石巻工場を立て直す!」

 石巻工場を復興させるための戦いが始まった。

 無論、工場再生への道のりは平坦なものではなかった。

 工場の従業員たちは最初に立ち上げるマシンを最新鋭のN6と決め、N6周辺の瓦礫撤去を重点的に行った。ところが本社営業部から急遽「最初に立ち上げるのは8号マシンをしてほしい」という打診が入り、工場側と本社で意見の衝突が起きてしまう。高度な専門性を持った8号でしか作れない紙を出版社が求めていると営業部は判断したためだ。

 現場で働く気持ちを考えて欲しいが、でも紙を待つ出版社を思う気持ちもわかる。現地と東京、離れていても出版社に、そしてその向こうにいる読者に本を届けるために最善を尽くそうという思いは同じだ。工場長の倉田は8号マシンの復旧に取り掛かることにした。

 終わりのないようながれき撤去やパルプの回収に取り組み続ける工場と、紙の供給を途切れさせないための他の製紙会社と出版社の協力取り付けに奔走する本社。社員一丸となった紙をつなぐためのリレーは続けられ、そして震災から半年後の9月14日、ついに8号マシンが再稼働したのだった。

 紙の本を届けたい。その強い願いのもとに、石巻工場を半年で復興させようとしたプロジェクトは当時の被災地にとって唯一の“希望”だったのではないかと著者は分析する。絶望的な光景が広がるなかで、工場再建は人が前向きに生きるためのよすがでもあったわけだ。

 震災直後の工場を訪れた芳賀社長が、工場の復活、ひいては会社の命運がかかったN6マシンを見に行こうという場面で、こうつぶやく。

 「さて、……希望の星に会いにいこうか」

 ああ、すごいね、って思う。こんな悲惨な状況のなかでも“希望”って言葉が出てくる人がいるんだ、って。そんな心強い人々が出版物を支えていることを、紙の本の頁をめくるごとに思い出すのだ。

文=若林踏