スマホがない1970年代、通勤電車でみんなが携帯していたもの/なぜ働いていると本が読めなくなるのか⑥

文芸・カルチャー

公開日:2024/4/26

なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆/集英社)第6回【全8回】

「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「疲れていると、スマホを見て時間をつぶしてしまう」…そのような悩みを抱えている人は少なくないのではないでしょうか。「仕事と趣味が両立できない」という苦しみは、いかにして生まれたのか。自らも兼業での執筆活動をおこなってきた著者の三宅香帆さんが、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿ります。そこから明らかになる、日本の労働の問題点とは?『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は、すべての本好き・趣味人に向けた渾身の作品です。

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なぜ働いていると本が読めなくなるのか
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆/集英社)

通勤電車と文庫本は相性が良い

 1970年代、それは出版界における文庫創刊ラッシュの時代だった。1971年(昭和46年)に講談社文庫、1973年(昭和48年)に中公文庫、1974年(昭和49年)に文春文庫、1977年(昭和52年)に集英社文庫が創刊される。新潮文庫や岩波文庫を追いかける形での創刊ラッシュ。オイルショックによる紙不足も深刻だったなか、それでも文庫創刊に踏み切ったことで、各出版社は新たなベストセラーを生み出すに至った。廉価で携帯にも便利な文庫は、今に至るまで書籍購入のハードルを下げている。

 とくに「通勤電車のなかで文庫本を読む」という風景は、このころ強く根づいたのだった。

 国土交通省作成「大都市交通センサス」によれば、首都圏の鉄道定期利用者の平均移動時間は1970年には1時間以下が70%だった。が、1980年(昭和55年)には1時間以下は46%──つまり70年代を経て、首都圏の定期券利用者の過半数は1日1時間以上電車に乗っているのが普通になっていった。

 ちなみに近畿圏でも同様の傾向になっており、1970年には通勤時間1時間以下が76%だったのが、1975年には55%となっている。首都圏よりも全体的に所要時間は短いものの、それでも半分近くが毎日1時間以上かけて通勤・通学していたのである。スマホもない時代、本や雑誌を読む人は大勢いただろう。

 本章冒頭に引用した司馬遼太郎の作品もまた、文庫本になってさらに広く受容された。福間良明によると、司馬の主要長編の単行本は1960年代半ばから後半に刊行されたが、文庫化されたのは1970年代半ば以降だった(前掲『司馬遼太郎の時代』)。

 70年代に刊行された文春文庫の売り上げ1位は『竜馬がゆく』、6位が『坂の上の雲』。どちらも文庫本にして全8冊という大長編小説である。

 しかしこれらの長い小説を、サラリーマンたちは、はたして通勤電車のなかで読めたのだろうか? この長さに、彼らは耐えていたのだろうか?

『坂の上の雲』は懐メロだった?

 小説以外のジャンルにおいては、1970年代、土居健郎『甘えの構造』(弘文堂、1971年)、梅棹忠夫・多田道太郎『論集・日本文化』(講談社現代新書、1972年)など次々に日本人論が発表され好評を博す。が、それらの論調の多くは西洋と比較したときの日本人を肯定するものだった(谷口浩司「社会学と日本人論―『社会と個人』再考」)。要は、本当かどうか分からない「日本人論」、日本という国を肯定する言説として広まったのだ。

 司馬作品の戦国武将や明治の軍人たちの在り方に、サラリーマンが自分の組織論や仕事論を投影して読む在り方は、まさにこの時代の「日本人論」と通じるものがある。

 つまり、高度経済成長期を経て、欧米と肩を並べる日本という存在を考えたとき、歴史や日本文化の伝統を持ち出しながら、日本人的振る舞いを肯定したくなる。だが一方でその裏には、不安があった。このまま昔と同じように、日本が坂の上を目指して、ただ坂道をのぼっていける時代はもう来ないのではないか、と。

 竜馬や、『坂の上の雲』の秋山兄弟のように、近代国家として日本が先進国に追いつこうとした時代の男たちのように──自分たちが生きられた時代はたしかにあった。それは60 年代へのノスタルジーだった。

 たしかに司馬が危惧したような「朝礼の訓示に安直に使える」教養の小ネタ集であったこともまた、司馬作品が読まれた理由のひとつではある。だが、一方で司馬作品には、香り立つような60年代高度経済成長期的「坂をのぼってゆく」感覚が閉じ込められている。

 政府も小世帯であり、ここに登場する陸海軍もうそのように小さい。その町工場のように小さい国家のなかで、部分々々の義務と権能をもたされたスタッフたちは世帯が小さいがために思うぞんぶんにはたらき、そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきているのであろう。

(中略)楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

(『坂の上の雲』単行本第1巻の「あとがき」)

 会社外での自己啓発を求められたりせず、会社内ですべて仕事と人間関係を完結できていた、「小さい」会社だった時代。「その目的をうたがうことすら知らなかった」楽天家たちの時代。それはまさに、失われた高度経済成長期の物語そのものだった。

 だからこそ当時のサラリーマンは、『坂の上の雲』も『竜馬がゆく』も、あんなに長いのに、それでも通勤電車で読んでいられたのではないか。ノスタルジーこそが、最も疲れた人間を癒やすことを、彼らは知っていたからだ。

 懐かしさに陶酔する姿は、もしかすると傍から見たら滑稽かもしれない。しかし懐かしさだけが救える感覚があることを、もしかすると、司馬作品を読む通勤電車のサラリーマンは知っていたのではないか、とすら思う。

<第7回に続く>

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