「無人島に一つだけ持っていくもの」が『週刊大衆』だったら…

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/18

『海辺の週刊大衆』(せきしろ/双葉社)

妄想力の鬼才・せきしろが描くネタまみれの無人島漂流記

 「無人島に一つだけ持っていくなら何がいい?」という質問は、誰もがしたこと・されたことがあるだろう。

 しかし冷静に考えると、海難事故に遭った場合などは、その「一つだけ持っていくもの」は自分の意志では選べない。無人島に流れ着いたときに、何が手元にあるのかは運任せである。

海辺の週刊大衆』(せきしろ/双葉社)は、その「一つだけのもの」が、なんと『週刊大衆』だった……という男が主人公の無人島漂流記だ。著者のせきしろ氏はラジオのネタ職人出身の文筆家で、“妄想文学の鬼才”ともいわれる人物。ピース・又吉直樹と共著の自由律俳句集『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』でも知られている。

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 そんな人の作品だけに、この物語では、普通は漂流記の中心をなすはずの「サバイバル生活」の描写はゼロに近い。ひたすら描かれるのは、『週刊大衆』を題材にした大喜利的なネタの妄想だ。

『週刊大衆』が好きでも嫌いでもない主人公の「僕」は、とりあえず中身を読んでみる。すぐに飽き、砂浜に作った山に『週刊大衆』を立てて「週刊大衆棒倒し」を始める。その後はビーチフラッグのフラッグを『週刊大衆』に置き換えたら……と考えて、「ビーチ週刊大衆」という新たなスポーツを夢想する。

 さらには「『海辺のカフカ』は砂浜に似合うけど、『週刊大衆』は砂浜に似合わない」などとムダなことを考えて、『週刊大衆』の似合う場所を検討しはじめる。

 喫茶店には似合う。河原に落ちているのも似合う。そこで唐突に、学校の体育館の天井に挟まっていたバレーボールのことを思い出し、「もしもあれがバレーボールではなく『週刊大衆』だったなら?」と想像する。結果は、もちろん似合わない……。

『海辺の週刊大衆』と『風立ちぬ』の共通点

 こんな脱線まみれの妄想ばかりで、物語は100ページほど進んでいくので、ゲラゲラ笑いつつも「もっと他にやることあるだろ!」とツッコみたくなる。そして実際のところ、助けを呼ぶ努力も、島を抜け出す努力もせずに、夢想しかしていなかった主人公は、次第に疲弊して窮地に追い込まれていくのだ! このどうしようもない主人公を見ていて思い出したのは、宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎だ。

 『風立ちぬ』の堀越二郎は、関東大震災の大混乱の中でさえ飛行機が飛ぶ姿を夢想し、サバの骨を見ても飛行機の翼のことを考える。それが戦争の兵器となることを自覚しながらも、「美しいものを作りたい」と飛行機の設計に没頭する。

 その堀越二郎の姿は、無人島で死の危険を目の前にし、その行為の不毛さを自覚しながらも、バカなネタの妄想を続けてしまう『海辺の週刊大衆』の主人公と重なって見える。作っているものは「飛行機」ではなく「ネタ」であり、目指すものも「美しいもの」ではなく「バカバカしいもの」なのだが、堀越二郎が飛行機に向けたような情熱を、この主人公はバカなネタ作りに向けているのだ。

 実際のところ、『海辺の週刊大衆』の終盤は、『風立ちぬ』にも負けない、何だか胸の熱くなる話になっていく。自らの性(さが)に抗えず、変なことに熱中してしまう人の生き様は、バカバカしくも見えるし時に理解もできないのだが、その圧倒的な理解できなさがゆえに感動的でもあるのだ。

文=古澤誠一郎