すべての出来事は、あらかじめ決まっている? 「運命論」をスリリングに更新する鮮烈な哲学書が登場

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/16


『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』(入不二基義/講談社)

一般的に「運命論」というと、過去も現在も未来も事前に全て決まっている、という議論が思い出されるかもしれない。けれども、ここで紹介する『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』(入不二基義/講談社)で展開されているのは、そのようなステレオタイプな議論とは一線を画したものだ。

本書は、古代から現代に至るまで、脈々と続いている「運命論」をめぐる議論のいずれかにライドしたり強化したりするものでは全くない。そうではなく、古今東西のさまざまな議論を参照しながら、ここで目指されているのは、私たちの抱いている「運命」という概念を更新していくことなのだ。

その試みは、読んでいくとドライブ感すら味わえるほどスリリングなものだ。そのようなドライブの中で、はじめて一定の輪郭を描くもの、それこそが本書の示す「運命論」といえる。動き続けることで形作られる概念、それが「運命」なのだと著者は主張しているからだ。

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「運命」という概念の書き換えは、私たちの世界観や人生観を書き換えていく試みにも等しい。なぜなら、「運命」をどのように捉えるかは、その人の世界の把握の仕方や人生への向き合い方、その全てに関わってくるからだ。その意味で本書は、「哲学研究書」ではなく、「哲学書」であるということができるだろう。

多くの哲学書がそうであるように、読者は本書を読み始めた当初、著者の展開する議論になかなか入り込むことができないかもしれない。しかし読み進めていくにつれて、徐々に著者の思考にチューニングされていく感覚を味わうことができる。まるでパズルのピースが揃っていくような読書体験から、そこに描かれる絵の全体像が次第に浮かび上がってくる。その過程の楽しさも本書の持つ魅力のひとつだ。

ここで展開されている「運命論」のアルファでありオメガは、タイトルの「あるようにあり、なるようになる」という言葉に集約されている。本書を読み終わった読者には、この言葉が以前とは全く意味の異なった意味を含んでいるものになっていることに気づくだろう。そこに生まれた読前と読後との間のズレこそが、「運命」という概念が読者の中で移動した(している)ことの証しでもある。

このタイトルの中に、幾重にも折りたたまれた襞(ひだ)。その襞たちが織りなすロジックとそれらが描き出す景色は、それ自体、強い快楽を生み出す装置のようにもなっている。私たち人間は、概念が揺り動かされることに快楽を感じる生き物なのかもしれない。それはまた、哲学の快楽ということもできるだろう。

「運命」に向き合う時、「運命」もまた、あなたをみつめている。すべては「あるようにあり、なるようになる」。ここで開示されているのは、そのことの意味が持つ豊かさそのものだ。それは密教的な様相すらまとっている。本書でも述べられているように、「書くことは運命に乗ること」であるのと同じで、「読むこともまた、運命に乗ること」ということができるかもしれない。

私たちの母国語である日本語の原書として、本書を読めることはとても幸運なことではないだろうか。哲学は母国語を、まるで外国語のように書き換えていく。その変化は私たちの思考の隅々にまで染み渡っていき、眠っていた可能性が伸びやかに踊り出す。そこで「運命」は動き続けているのだ。

文=中川康雄