被害者・加害者それぞれの父親の苦しみとは?【佐世保小6同級生殺害事件の真実】

社会

更新日:2020/5/31


『謝るなら、いつでもおいで』(川名壮志/集英社)

 私はずっと、事件を追うマスコミの姿に否定的な感情を持っていた。大切な家族を失った遺族に対して「今のお気持ちはどうですか」なんてマイクを突きつける神経は一体どんなものなのだろう。被害者が出た事件の関係者への取材とは本当に必要なものなのだろうか。“知る”ということは大切なことだ。しかし、それよりもっと大切で、守るべきものはないのだろうか。

謝るなら、いつでもおいで』(川名壮志/集英社)は、2004年に長崎県佐世保市内の小学校の校内で、当時6年生だった女児が、カッターナイフで同級生を殺傷した「佐世保小6同級生殺害事件」の取材をまとめたノンフィクションだ。当時、被害者女児の父親である毎日新聞佐世保支局長の部下として、家族のように付き合っていた新米新聞記者だった著者が、被害者側の視点から見た事件の真実と、一記者として捉えた事件の背景を綴っている。被害者家族に近い立場にいた著書だからこそ知り、見えてきた事件の真実が書かれた第一部、被害者の父親、加害者の父親、被害者の兄というそれぞれの立場から見た事件への想いが語られた第二部の二部構成だ。

 第一部で、一マスコミ人として、一人間として綴られた著者の語りからは、ワイドショーや短時間のニュース報道では知りえなかった、事件の裏で起きていた真実と事件関係者それぞれの想いや姿を知ることとなる。慕っていた上司が遺族であるという状況のもと、被害者と記者、取材者と取材相手という真逆の立場の間で揺れ動く著者。「新聞記者である以上、書かなければいけない」という先輩の言葉。遺族が事件当日に会見を開くという前代未聞の行動を起こした、一マスコミ人であり、被害者の父親でもある支局長の想い。本音と建前が赤裸々に語られる中で、加害者側のみならず、時として被害者側までも追い詰めてしまうこともあるマスコミの姿の中にも、生きているゆえに生じる人間としての心が見えてくる。

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 第二部の被害者の父親のインタビューでは、娘への後悔の気持ちと親として背負わざるをえない娘を失った苦しみ、加害者への想い、償いと救いについて語られている。遺族である父親の言葉が表す多くの問題は、罪の重さという視点とは別の観点で少年事件を考える、ひとつのきっかけとなるかもしれない。加害者の父親の想いもまた、立場が違えども、一父親としての苦しみが垣間見える。罪を犯してしまったわが子の想いを理解し得ないままに、加害者少女が入所した児童自立支援施設のルールにより限定的にしか知らされることのない娘の様子と罪の重さに心苦しむ父親。加害者家族として、衆目の中で独り事件が起きた当時の家にとどまり続けていたときの想いとは何なのか。

 人を愛おしく思う気持ちを言葉にするのは難しい。愛情であり、尊敬であり、同情でもあり、慈愛でもあり、あるいは、それら全てにもあてはまらない複雑な感情もあるかもしれない。殺人事件を著した本書を読み進めていく中で、心がズキリとするのは、憎しみではなく、そんな誰かを愛おしく思う気持ちが、この事件に関わる人の言動から垣間見える瞬間だ。被害者・加害者・マスコミという、決して交わることのない三者の間に、憎しみやいがみ合い以外の何かを見出す作品なのだ。著者が、遺族となった被害者少女の父と兄を見て語るこんな一文がある。「それでも、この父子は怜美ちゃんを失った喪失感を、憎しみで埋め合わせようとはしなかった」。

 法律や精神医学の専門家による解説、ワイドショーやニュース報道などでは見ることのできなかった、生々しくも、深い、人の心の様を著した本書は、罪の重さを問うのではなく、ひとつの命と一瞬の事件が与える影響力の大きさ、感情を持つ生き物であるがゆえの人間のあり方について痛烈に考えさせられる1冊となっている。ラストに綴られる、大人たちとは異にした、強く厳しく切なく優しい被害女児の兄の赤裸々な告白、そして、最後に語られる、この本のタイトル『謝るなら、いつでもおいで』に込められたある人物の想いと共に、少年少女による犯罪事件が後を絶たない今だからこそ、読んでおきたい1冊なのである。

文=Chika Samon