ラーメンは救い/絶望ライン工 独身獄中記㊷
公開日:2025/4/16

東神奈川駅で降りる。
いつぶりだらうか、横浜にある小さな町は相変わらずの絶望感だ。
改札を出て2階広場、立呑み龍馬が「こっちぜよ」と呼んでいる。
龍馬は新宿歌舞伎町にもあり、会津から高速バスで東京に通っていた頃はよく利用していた。
龍馬で紅生姜串とホッピーセットで散々粘り、天一を食べてカプセルホテル「グリーンプラザ」に転がり込む。
残念ながら、新宿のグリプラは数年前閉館となったらしい。
笑えるくらいド貧乏だった頃、会津と東京を繋いでくれたのは高速バス「夢街道会津號」とグリプラである。
当時ミュージシャンごっこをしていた自分は、呼ばれれば喜んで東京に馳せ参じた。
仕事はDJだったり、アレンジだったり、録音だったりと何でもやった。
茶封筒に取っ払いでもらった僅かなギャラは、その夜の龍馬と宿代に消える。
翌朝高速バスで会津へ戻り、若松駅で昼は90分に1本しか来ない路線バスを待って村に帰るのだった。
何の希望もない暮らしだったが不思議と仕事は途絶えず、その頃付き合いが始まった友人がトゥモローランドに出たとかいう噂を聞いたことがある。
そんなことを思い出しながら歩く。広場の下の通りには餃子の王将がひときわ輝きを放っているのが見える。
会津より命からがら東京に逃げ延びた自分は、その傲慢さから再び仕事を失う事になった。
状況は悪く、毎日何もすることがない。
目の前に広がるは漆黒の闇、絶望である。
(なんだか自分は何かと理由をつけていつも絶望している気がする)
そんな自分を救ってくれたのはラーメンだった。
ラーメン二郎会津若松駅前店、蓮爾新町一丁目店(当時はさんこま店だった)、そして東神奈川の麺ヤードファイト。
旨いラーメンを食べるために金を稼ごう。それには仕事をしなければ。
帰りにラーメン屋に行くのを楽しみに、当時の自分は誰にも聴かれることのないコンペ楽曲をせっせと作り続けた。
(そしてそれらは、1曲として世に出ることはなかった)
今この瞬間、東神奈川の喫茶店に入って本稿を書き殴っている。
当初の目的はショート動画用の現調(下見と撮影許可確認)であったが、なんだか色々思い出しちまって勢いのままごちゃごちゃと書く。
あの頃はそれはそれは酷いザマでした。
夕暮れと共に龍馬で飲み、その金もない時は反町公園のベンチで缶ビールを飲む。
本当は王将で飲みたいが、そんな身分ではなかった。
ほろ酔い気分でラーメン店に並び、食べ終わると来た道をまたトボトボと帰る、そんな日々を思い出す。
反町公園まで歩く。餃子の王将はまだあった。
結局一度も行ったことがない。次来た時は王将で飲もう。
公園の隣にあった、小さなローソンはなくなっていた。あすこで缶ビールを買って公園のベンチで飲むのが一日の終わりである。
なんとなくラーメン店まで歩いてみる。
オシャレなカフェみたいな店が、当時幾度となく救われた麺ヤードファイト(正確な店名はMEN YARD FIGHT)だ。
ぶっとい麺とほどける豚が一度食べたらやみつき、これは愚かな人類への尊い救済であると唸りながら夢中で食った。
会津に住んでいた頃は、休日やはり路線バスに乗って喜多方までラーメンを食べに行った。
そして駅前にはラーメン二郎がある。出来た当初は嬉しくて、自転車を漕いでオープン初日に見に行った。
バイト帰りに野口英世青春広場で缶ビールを開け、眼前にそびえる稀代のクズ、野口先生の銅像に乾杯する。
あゞ先生、自分も貴殿のように借りられるだけ金を借りて女を買い、ギャハハと酒を飲んで愉快に暮らしたい。
野口英世は誰もが知る会津(本当は猪苗代)の偉人であるが、彼の人となりを知るにクズであるから、親しみを覚え余計に好きになったものである。
野口と飲んだ後食べる会津二郎は格段の旨さだ、つらい日常を忘れさせてくれる。
蓮爾も随分と通った、雨が降る度蓮爾に行った。
天気が悪ければ悪い程、並ぶ時間が少なくてよい。
駅のコンビニで買った缶ビールを飲みながら、國道246號をご機嫌に歩く。
つけダレかと思うくらい味の濃いスープにぶっといバキボキ麺を絡ませてかっこめば、桃源郷の夢心地だ。
そういえば同じ工場勤務の動画配信者と以前楽曲を発表したことがあるが、まさに蓮爾を食っている時に思いつき、その帰り路本人に連絡したものである。
蓮爾がなければあの曲が世に出ることはなかった。
霞食って生きる、蓮爾食ってイキる。けれどもそれは断片的です──
誰かがこう歌っている。「願いなんて神に祈るな」
汝救済を求めんとするなら、卓上のどんぶりに祝福をあたえられん。
福音は祈りにではなく、一杯のラーメンに宿るのだろう。
42歳独身男性。工場勤務をしながら日々の有様を配信する。柴犬と暮らす。