お腹の赤ちゃんは18トリソミー。「命」をめぐり生じるすべてをあますことなく描く『わたしが選んだ死産の話』【書評】
公開日:2025/6/27

『わたしが選んだ死産の話』(桜木きぬ:著、医療法人財団順和会山王病院長 藤井知行:監修/KADOKAWA)は、「日常観察マンガ」で人気を博す作者が、自身の体験を振り返ったコミックエッセイである。
タイトルの「死産」というキーワードはかなり読者を選ぶことになるかもしれない――ということを想定した上で先に言っておこう。本作は「死産」という個人的な体験を通して人が生きること、死ぬことを描いた物語である。「命」をめぐり生じる喜び、悲しみ、怒り、苦しみ。つまり、この世に生きる老若男女すべてに関係のある話なのだ。

作者のきぬさんは、夫のあっくん、5歳の息子・ウタくんとの3人暮らし。心待ちにしていた2人目の妊娠に家族3人、喜んでいたのも束の間。おなかの赤ちゃんに染色体異常の可能性があると告げられる。
きぬさんは、長男誕生以前に流産を経験している。だからこそ「生きているならどんな形でも産みたい」と願うのだが、診断は厳しいものだった。羊水検査の結果、重い障害をともなう「18トリソミー」であることが判明。自然流産となることが多く、無事に生まれても生後1年まで生存する子どもはおよそ10%未満とされている。
「もしかしたら治療法があるかもしれない」と一縷の望みにすがり、精密検査を行うも――医師が口にしたのは絶望的な言葉だ。
「もしもあなたが僕の家族だとしたら」「僕は治療はすすめません」
母体に負担がかかるリスクも大きく、入院が長引くことも懸念される。そうなれば、長男のウタくんにも寂しい想いをさせることになる。
こうして、きぬさんは「死産を選ぶ」決断をしたのだ。


しかし、おなかの中でまだ生きている命を「死なせる」という決断のなんと重いことか。これには自然に亡くなる流産とはまた別種のつらさがつきまとう。「結局、この選択は自分の身を守っただけではないのか」と己を責める苦しみは想像を絶するものだ。
赤ちゃんの誕生を楽しみにしているウタくんにどう説明すればいいのか。
相手が大人であってもそう簡単に説明できるものではなく、同じく妊娠中の友人の前で何事もないように振る舞うのだ。
そして、お別れの日がやって来て……。


それにしても自身の心の動きはもちろん、周囲の人々がどんなふうにそのことを口にし、その都度、きぬさんがどんな気持ちになったかが詳らかに描写されていることには驚くばかり。
逡巡と葛藤の中にあり、揺れ動く感情を包み隠さず描きながらも他者の態度や言葉の意味を冷静に受け止める姿勢に敬服する。
手術が終わり、退院した後もきぬさんは後悔と罪悪感に苛まれる。そんな人に何と声をかけたらよいのだろう。「だれのせいでもない」とか「しかたがなかった」とか、そんなことは当事者だってわかりすぎるほどわかっているはずだ。
涙が止まらないきぬさんに、ウタくんが言った率直な言葉には思わず涙腺が崩壊した。夫のあっくんの愛に満ちた言葉も。ここにその言葉を引くことはせずにおこう。この作品を最初から通して読んで、その感動を体験してほしい。
きぬさんの痛みは忘れられるようなものではないけれど、愛と信頼で結ばれた人の言葉は力になる。それも本作が訴えることのひとつである。
あとがきによれば「流産を経験する女性の割合はおよそ7人に1人。死産はおよそ50人に1人(厚生労働省2024)」だという。
きぬさんは、こう想いをめぐらす。
「確かに思い出すと悲しいけれど なかったことみたいになるのも寂しいな」
「難しいかもしれないけど… もっとオープンに話せたら 苦しさや寂しさが和らいだりしないかな」
デリケートな事柄だけに口にしづらいけれど、赤ちゃんを亡くしている人はたくさんいる。それがいかに私たちの身近な悲しみであるか、だれもが共有すべき悲しみであるかを真摯に伝える作品である。
文=粟生こずえ