〈戦争が終わるたびに/誰かが後片付けをしなければならない〉。地震やコロナ、変えられない過去の記憶を丁寧に掬い上げる小説
更新日:2024/2/23

平坦な日常を淡々としたタッチで描く――柴崎友香氏の小説は、そんな風に評されることがままある。だが、彼女は、一見平坦そうな日常を凝視することで、誰かの奥底に眠っている無数のドラマを書き起こしてゆく。彼女の新刊『続きと始まり』(集英社)にも、同様の感慨を抱いた。様々なドラマを彼女なりの感性で掬い上げることで、作品に奥行きと深みが生まれている。
本書は一編の小説だが、複数の登場人物が異なる視点で現実を切りとってゆく。描かれるのは、2020年3月から2022年2月までの3人の日常。滋賀県在住の石原優子(26歳)、東京在住の小坂圭太郎(33歳)、柳本れい(46歳)。主軸となるのは、彼/彼女らの震災やコロナ禍にまつわる記憶である。優子は東京のデザイン事務所に勤務していたが、今は滋賀県で生活している。家族は夫と7歳の娘と3歳の息子。日用品や衣料雑貨を通信販売する会社でパート勤務だ。
圭太郎には妻と4歳の娘がいる。彼は居酒屋で料理人をしていたが、緊急事態宣言によって店は営業を停止。新たな働き口を見つけたばかりだ。れいはフリーランスのカメラマンで、知人が始めた写真館を手伝ったり、雑誌やWEBの仕事をこなしたりして生計を立てている。3人の日常生活はやはり平坦ではなく、個々の感情のざわめきがヴィヴィッドに伝わってくる。そこがいい。
とりわけ目を惹いたのは、各々の実家との関係である。圭太郎には娘がいるが、実家の父親からは男の子を産むのが優先と言われ、はやく次の子を作れと居丈高に圭太郎に言う。なんて旧い価値観なんだろうと思うし、圭太郎夫婦にはプレッシャーでしかないが、こうした慣習はまだ「続いて」いるのだろう。それに対して、ふたりは思いも寄らぬある決断をくだすことになる。
コロナ関連のエピソードのリアリティは出色である。コロナにまつわるニュースは、気付いたらいち時期に較べてかなり減っている。なんとなく「コロナ」という言葉自体が口の端にのぼらなくなり、忘れ去られているようにも感じることも多々。だが、筆者には、ここ1か月ほどでコロナに罹患した知人が複数いる。コロナ禍で人々の生活は劇的に変わったが、と同時に、その余波や余韻はまだ続いているのだ。本書はそんなことを強く意識させてくれる。
また、東京オリンピック延期についての描写に、懐かしさを覚えてしまう自分にも愕然とした。いつのまにか、意識しなくなっていたのだ、重要で重大だった数年前の出来事を……。登場人物たちの脳裏にも、阪神・淡路大震災や東日本大震災のことが、ふとした瞬間によぎる。その描写は実に生々しく、柴崎氏の筆致は冴えている。
記憶にあるうちは、まだ「続いて」いる、ということなのだろう。すべてをなかったことには決してできない。目の前には新しい生活、つまり「始まり」が待っているかもしれないが、過去は変わらないし変えられないはず。ずっと自分の中に堆積し続けてゆく。
三者三様の日常は、異なる方向を向いているが、終盤で交わることになる。3人に共通するのは、ポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩集『終わりと始まり』を愛読していることだ。作中で引用されているこの詩は、本書の内容とリンクしている。ここでこう繋がるか、とひとりごちてしまった。
例えば、〈戦争が終わるたびに/誰かが後片付けをしなければならない/物事がひとりでに/片づいてくれるわけではないのだから〉という箇所。ここでは後片付けの象徴として戦争が挙げられるが、震災やコロナ禍のあとに待っているのもまた、気が遠くなるような労力と時間が必要な「後片付け」だ。「情報」としてのコロナ禍や震災は風化するとしても、「記憶」としては個々の体内に蓄積され、積み重なっていくのだろう。
文=土佐有明
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