理解のある彼くん/絶望ライン工 独身獄中記⑲
更新日:2024/6/11

通勤時間が好きだ。
朝の満員電車でつり革に掴まって皆で揺れる。
資本主義が生んだ労働者輸送鉄道の中では、誰もが孤独なプロレタリアートだ。
若い学生、サラリーマンのおっさん、事務員ぽい女性。
これだけ人がいるのに誰も喋らず、車内は驚く程静かである。
服が吸音するのかガラガラの時より走行音も静かで、時おり隣のパンク野郎のイヤホンからノーエフが漏れてくる。
皆スマートフォンを眺め、この時間を寡黙に過ごす。
私も慣例に倣い、音楽を聴いたりインターネットをするのであった。
ネットには毎日のように炎上や醜聞、エロスや誰かの不幸コンテンツが大河のように流れ、我々を楽しませてくれる。
人々はタイパとか言う時間効率を求め、その結果テキストを読むのではなくTikTokを発端とした短編動画に辿り着く。
今やネットはこれらのショート動画、そしてそれにつくクソリプが銃弾のように飛び交う地獄のような場所になった。
比較的安全だった匿名掲示板で馴合っていた時代は終わり、観測者の数だけ銃口が突きつけられるオンラインの銃社会が、令和のインターネットである。
そんなネットで私が近年愛してやまない話題、それが「理解のある彼くん」である。
先天的な生きづらさを抱えた女性の生々しいエッセイ。
大抵はイラストや漫画で綴られるが、その結末はどれも
「そんな私も理解のある彼くんのおかげで幸せに生きています」
というそれまでのプロセスを全無視した無敵のトゥルーエンドで締めくくられる。
弱者女性にはどこからともなくパートナーが現れ、救われる。
では男性ではどうか。赦しも救いも──ないんだよ。
これらの作品に触れ、我々名も無き弱者男性はやり場のない怒りと悲しみに苛まれ、その矛先は全ての女性達への恨みという形で発露していく。
あまりに不条理な男女間の恋愛格差への失望、そして無力感。
その結果生じるネットでの執拗な女叩きや、新宿の地に顕現するぶつかりおじさん。
女叩きを叩く女叩き叩き、ぶつかりおじさんにぶつかるぶつかりおじさんぶつかりおじさん。
PKだPKKだと大混乱の様相はネットを飛び出し、ついには現実世界に干渉を始めた。
この世の中全体を巻き込む壮大なスぺクタクルはさながら大規模な劇場型社会実験だ。
隠し通せぬ男女格差に絶望し、婚姻志願者の減少から出生率を下げ、日ノ本の国力を著しく低下させる恐れすらある。
たかだか一個人の書いたエッセイがここまで人の心を動かし、世界に影響を及ぼす。
物書きの真似事をしている自分にとってそれは大変に羨ましく、憧れにも似た畏怖の念を覚える。
そんな至高のエンタテインメントが、理解のある彼くんコンテンツである。
妻子がいるにも拘わらず孤独と不幸を謳う動画投稿者。
毎回誰かとコラボしているぼっち大学生。
ラーメンを食べないラーメン大好きなんとかさん。
柴犬と暮らすくせに絶望しているなんちゃらライン工。
世の中に不条理コンテンツは数あれど、理解のある彼くんと肩を並べるものはない。
KADOKAWAよ、聞け。
社会に及ぼす影響力とその損失を鑑み、今後これ以上理解のある彼くん漫画が発刊されぬよう、切にお祈りして筆を擱く。
42歳独身男性。工場勤務をしながら日々の有様を配信する。柴犬と暮らす。