サザン桑田佳祐にSuchmosYONCE …なぜ茅ヶ崎に音楽家が集まるのか?“サザン”の名付け親・宮治淳一さんインタビュー

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公開日:2017/11/17

 桑田佳祐さんと青春時代を過ごし、サザン・オールスターズの名付け親でもある音楽評論家の宮治淳一さん。このほど出版した『MY LITTLE HOME TOWN 茅ヶ崎音楽物語』(ポプラ社)では、桑田さんと宮治さんが共に過ごした「茅ヶ崎」と縁の深い10曲を入り口に、加山雄三、加瀬邦彦、平尾昌晃ら茅ヶ崎が生んだ音楽の大スターたちの人生を描き出す。なぜ、彼らは茅ヶ崎に集まっていたのか? 宮治氏にお話を伺った。不思議な土地の縁をひもとけば、戦後ポップス史も見えてくる。

●自分しか知らない桑田さんとの話を蔵出し

――放課後、ビートルズを聞きに桑田さんの家に通ったり、一緒に地元でロックコンサートを開いたり、本には桑田さんとのさまざまなエピソードが紹介されていますね。それらから伝わる、お二人の青春時代の熱量みたいなものが、なんだかまぶしく、うらやましく感じました。

 そうでしたか。桑田さんとのエピソードは、自分しか知らない話がかなり入っているので、ファンの方々にはよろこんでもらえるんじゃないかと思います。蔵出ししちゃったんで、もうないですけど(笑)。僕の実体験を通じてあの時代の空気感を出したいというのが、この本を書く上での目的みたいなところもありましたね。

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――茅ヶ崎に縁があるということで、加山雄三さんを筆頭に、ワイルドワンズの故・加瀬邦彦さん、作曲家の故・平尾昌晃さんなど日本の戦後歌謡・ポップスシーンで大きな役割を担った方々が紹介されていますが、桑田さんとは書き方のアプローチは当然違うわけですよね。

 もちろん全然違います。桑田さん以外は、「茅ヶ崎と音楽」というのをひもとく上での何人かの一人として紹介しているわけで、周辺取材とか資料とかで書くしかない。本質に迫るのも難しいし、誰も知らないエピソードなんてありません。実際の私との関係なんて、小学校の頃に聞いたとか、そういう一般的な視点です。とはいえ、たまたま同じ茅ヶ崎出身だったから、たとえば北海道にいるファンの方とは見方が少し違うというのはある。だから、最初はもっと自分が出てこない三人称で書いたような本にしようと思ったんですが、「自分だから書ける視点」ということで、一人称で書くことに舵を切ったんですね。

――加瀬さんや平尾さんだけでなく、取材先として登場された音楽評論家の鈴木カツさんも先頃お亡くなりになりましたし、タイミング的にもギリギリだった感じもしますね。

 カツさんには、2年前に初めてじっくり3時間くらい話を聞きました。それで「あの人にも聞いたほうがいい」って紹介されて取材先を広げたり。カツさんとまともに話したのもその時が最後になってしまいました。平尾さんは、まさに平尾さんの項を書いている最中にお亡くなりになってね。やっぱり早くやらないといけないんですよね。

 たまたま地理的に縁はあっても、僕にとって加山さんや加瀬さんや平尾さんというのは計り知れない存在。でも、やっぱり芋づる式にいろんな人から話を聞くと、段々リアルになってくるんですよ。知ったからこそ多く疑問もわいてきましたし。でも、疑問を持った場合、解決してから書こうとすると永遠に書けないんですよね。だから、えいやって書いて、それでいろんな人からあれはこうだよっていうのが出たら、いつか増補版で(笑)。

●茅ヶ崎になぜ音楽家が多いのか?

――桑田佳祐さんももちろんですが、SuchmosのボーカルのYONCEさんも茅ヶ崎出身で、脈々と遺伝子が引き継がれていますよね。それが明治の九世市川団十郎にはじまる文化人の別荘地から出発したという、土地の歴史も面白いです。

 昔は今の駅があるところから海側にあたる方向はすぐ海岸線が迫っていて、次第に砂が堆積してできた平らな土地が茅ヶ崎なんです。海からの風と砂がもろに来るから住むのには適さないと言われていて、だから安かったし、その割には東京から近い。後に大船に松竹の撮影所ができたこともよかった。そうでなければ俳優の上原謙さんは茅ヶ崎に住まなかったし、息子の加山さんだっていないですから。

――茅ヶ崎には米軍キャンプもあって、キャンプの存在と戦後のポップス史の関係とか、歴史の縦と横の糸が茅ヶ崎に焦点をあてることでわかりやすく見えるところもありますよね。

 たしかに出てくる人たちも日本の音楽史に大きな役割を果たした人たちだし、縮図的に見える面はありますね。桑田さんの時代にしても、文化祭でバンドやったりとか、あの時代にああいう話が日本全国どこにでもあったと思います。たまたま僕のまわりはプロになった人たちがいて、今も現役であったという。その偶然には感謝しますし、そうでなければこの本は出なかったですから(笑)。

――あらためて、なぜ茅ヶ崎だったんだと思いますか?

 結局、いまだに結論は出せてないんですが、土地が本来持つパワーみたいなものが関係するのかな、と。実は映画『茅ヶ崎物語 〜MY LITTLE HOME TOWN』の中で中沢新一氏が展開したことに近い「烏帽子岩」の説(海民に絶えず無言の電波を送り続け、その電波をキャッチした海民は、何か新しいものを創造するように絶えず促されている)が、荒唐無稽でも説得力がある気がします。科学的に解明できないけれど、一番信用に足りうるという。

――宮治さんはずっと茅ヶ崎にお住まいで、惹き付けられる「強さ」みたいなものもありそうですね。

 僕は大学から東京ですけど、一度も東京に住もうと思ったことはないですね。ニューヨークの人が、ロングアイランドに住むように、都市のそばのリゾートみたいな場に人が住むことがあるじゃないですか。たぶん距離感がいいんですよ。茅ヶ崎はリゾートなんだけど、行って帰ってこられるし、住むこともできるっていう非常に都合のいい場所で。僕は音楽の仕事をずっとしてきて、多摩川より向こう、つまり東京が仕事場で、そこでは「売れる音楽」が「いい音楽」。で、多摩川を越えると「自分の好きな音楽」が「いい音楽」。リセットされるんですね(笑)。

●あえて「言葉」で音楽を残していくこと

――茅ヶ崎と音楽を見つめることで、日本のポップス史が見えてくるのはとても面白いのですが、過去と現在をつなげる地点が、ちょうど桑田さんであり宮治さんの世代なのかもしれませんね。

 この本に書いた方々は、特に戦後において「洋楽」といったものにかなり影響を受けて自分の音楽を作り出した人たちだったわけです。その一番バッターが加山雄三さんでね。加山さんは固定相場1ドル360円の時代に、自らが率いる高校生が主体のバンドがフェンダーのギターやアンプを揃えるのに躊躇しなかったり(注:ギター1台が今でいう200万円ほど。親類を通じてアメリカから直輸入)、そのバンドの喜多嶋修さんは慶應大生時代にアビー・ロード・スタジオに行っちゃったり。相当に豊かな層でもあったわけですが、同じお金持ちでも誰もが音楽と世の中にプラスになることをやるわけじゃないですし、彼らはありがたい存在です。

 いってみれば、桑田さんあたりからが、ある意味、特権階級的な条件などない「土着の人間」の集まりになってくる。戦後の一番いいところはね、機会が均等になったことですよ。経済の伸張とともに、特権階級でなくても、ちょっとがんばれば自分の子どもも大学に行かせられるようになった。学歴の格差は機会の差を生んできたけど、差がなくなって出自に関係なく、レコードは買える、コンサートは行けるっていう。ものすごく才能があれば普通の人でもスターになれるっていう。別にフェンダー持ってなくてもロックはできるっていう均等を生んだし、実際、ちょっとがんばればフェンダーくらい買えるしね(笑)。

――そういう戦後ポップカルチャーの実相は新鮮です。そうした歴史も、当時の音楽も、残していかないと忘れられてしまうことですよね。

 エジソン以降、録音技術ができてから、今まで何億曲もが積み重なっていて、2TBでもオーバーフローしてるでしょ。ようするに顧みられない音楽がある。それは悪い音楽だからというわけじゃなくて、誰かが発見して持ち上げてあげないから残らない。もちろん、それに賛同してくれる人がいなきゃ単純にアナクロなわけですが。でも、やっぱり伝えていきたい音楽というのはあって、たまたま僕は音楽好きでやってきたのではあるけれども、もう一歩踏み込んで、後世に伝えることはしていきたいですね。

――この本のように、「言葉」で音楽を残しておくっていうのも大事ですよね。

 今はSpotifyでもなんでも、垂れ流しの文化ですよ。誰かのプレイリストをずっと聴いていてもいいんですが、そこに言葉が介在しないと、いくら選曲の妙があってもなぜなのかという疑問がわかなくなる。やっぱりディスクジョッキーの番組が必要なのと同じで、どういう背景でどう出てきてこうなのか、今2017年に聴く意義はどこにあるのか、伝えていくのも大事でしょう。

 若い人にとってはビートルズもリンキンパークも古いって意味では一緒。クロノロジカルに捉えていない。初めて聴いた曲は世に出た時代に関係なく全部新曲なわけですからね。でもやっぱり、音楽なんて聴いてりゃいいじゃないかっていうんじゃなくて、あえて言葉で残すことも大事だと思います。この本はその最初の1ページですね。

取材・文=荒井理恵 写真=内海裕之