答えは、落語の中にある。女性落語家・甘夏をめぐる下町人情譚『甘夏とオリオン』【増山実インタビュー】

小説・エッセイ

公開日:2020/1/18

「落語の中にはアホがいる。噺家になったら、心置きなくアホを演じられる」──偶然入った寄席で落語に魅了され、大学を中退して桂夏之助に弟子入りした甘夏。だが、3年ほどたったある日、師匠が突然失踪。甘夏とふたりの兄弟子・小夏と若夏は、夏之助の帰りを待ち、深夜の銭湯で「師匠、死んじゃったかもしれない寄席」を開くが……。

増山実さん

増山 実
ますやま・みのる●1958年、大阪府生まれ。放送作家を経て、2012年に「いつの日か来た道」が第19回松本清張賞最終候補に。改題した『勇者たちへの伝言 いつの日か来た道』で13年にデビュー。同作で第4回大阪ほんま本大賞を受賞。他の著書に『空の走者たち』『風よ僕らに海の歌を』『波の上のキネマ』がある。

 

 増山実さんの新作『甘夏とオリオン』は、女性落語家・甘夏と彼女を取り巻く人々の喜怒哀楽をすくい取った物語。あちこちに頭をぶつけながらも、ひたむきに生きる甘夏の姿が瑞々しい感動を呼ぶ一作だ。

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「最初に思いついたのは、主人公の名前でした。5年ほど前、神戸の六甲道でたまたま甘夏食堂という店を見つけて。『甘夏ってええ名前やな。キリッとして、甘さもあって。落語家で甘夏っておったらかわいいやろな』と思ったんです。そこから兄弟子と師匠の名前も考えて、それだけをずっと温めていました。その後、編集者から『家族の話を書いてほしい』と言われた時に、ふと甘夏のことを思い出したんです。落語家の師匠と弟子は、肉親のように強い絆で結ばれた疑似家族。そこで、落語家一門の話を書こうと考えました」

 もともと落語への造詣が深い増山さん。作中には30以上の噺を取り入れているうえ、執筆にあたって約15人もの落語家に取材をしたという。

「落語を知らない人が、面白さに気づいてくれる入門書になればいいなと思いました。女性落語家が主人公なので、関西で注目を集めている桂二葉さんに取材し、多くのヒントをいただきましたね。とはいえ、これはあくまで小説ですから、虚と実のあわいを楽しんでもらえたら」

 執筆するうえで推進力となったのは、落語の演目「宿替え」。甘夏が落語家になろうと決意するきっかけとなったのも、この噺だ。

「とある亭主が、引っ越し先の長屋の壁にほうきをかける釘を打つんですね。でも、奥さんとの話に夢中になり、釘が壁を打ち抜いてしまいます。『壁が薄いから向こうに突き抜けてるかもしれん』と隣の家に謝りに行ったら、打ち抜いた釘が仏壇の阿弥陀さんの喉を突き破っていた。僕はこの話がすごく好きなんです。壁一枚隔てた向こうは、思いもよらないところにつながっている。普段は気づかずに生きてるけれど、ふとした拍子に気づくことがある。それは壁を釘で打ち抜いた時や、と。これこそ、人生の本質やなと思うんです。だから、この話もいろんなエピソードが意外なところにつながってるでしょう? 壁を打ち抜いた釘のような話にしたくてそうしました」

落語の世界と現実社会のマイノリティを描き出す

 この小説を書くうえで、増山さんの中にはもうひとつテーマがあった。それはマイノリティを描くこと。

「『新潮45』でLGBTに関するひどい特集があったでしょう? そんな不寛容な社会に対し、アンチテーゼになる物語にしたかったんです。そもそも女性の落語家自体、落語界ではマイノリティ。大阪だけで300人近い落語家がいますが、女性は20人ちょっとですから。男性社会ですし、男を演じるにはハンデもある。でも、そこで頑張っていく話にしようと思って。それに、師匠の夏之助も実はマイノリティなんです。落語家は三枚目のほうが笑いを呼びますが、彼はイケメン。そういった価値観の逆転も、落語らしいなと思います。落語には『一眼国』という噺がありますよね。ひとつ目小僧をさらって見世物小屋に出せば大儲けできると考えた男が、一眼国を探しに行く。でも、逆に彼らに捕まってしまい、『こいつはふたつ目だ、珍しい。見世物小屋に売り飛ばそう』となる。この噺と同じように、見方を変えればマジョリティとマイノリティもころっと逆転します。こうした落語の世界とジェンダー、民族、病といった現実社会の問題を結びつけて描くことで、新たな気づきが生まれるんやないかと思いました」

 そもそも落語の登場人物は、社会の規範からはみ出したマイノリティが多い。増山さんの言葉を借りるなら「飛び抜けたアホ」が、落語の中では自由にのびのびと生きている。

「よく『アホの存在を否定せず、肯定して笑うのが落語』と言われますよね。でも僕は、もうひとつ大切なことがあると思うんです。当の本人からしたら、肯定とか否定とか言われる筋合いもない。人は誰かに肯定されるために生きてるわけやないですから。ただ懸命に生きてる姿を、あるがままに笑うのが落語。そっちの視点も大事にしたいんです」

芸能の町・玉出は人を〝待つ〟町でもある

 デビューから今に至るまで、土地に根差した物語を書き続けてきた増山さん。本書では、大阪の下町・玉出の情景をいきいきと描いている。

「僕の場合は〝町ありき〟。その町を書きたいという思いが、小説を書く動機のひとつになっています。これまでは西宮、宝塚、尼崎と兵庫県のことばかり書いてきましたが、今回初めて大阪のど真ん中・玉出を舞台にしました。玉出は、大阪の芸能のふるさと。下町なので家賃が安いし、寄席のあるミナミにも歩いて行けます。数々の芸人さんがここで暮らしてきましたし、これから世に出ようとする若い噺家やミュージシャンも住んでいるんですね。ほかに、上方落語のもうひとつの舞台、船場についても描いています。やっぱり落語は、人と人とがぶつかり合う町で生まれるもんやないですか。この物語は町と密接にかかわり合う、まさに人と町の物語なんです」

 しかも、玉出について取材するうち意外な事実もわかったという。

「玉出は昔、『勝間』と書いて『こつま』と呼ばれていました。諸説ありますが、この地から船で出征した兵士の帰還を待ちわびる妻、『古妻』に由来するそうです。つまり、玉出は人を待つ町だったんですね。偶然でしたが、驚きました。ちなみに、深夜寄席を開く銭湯が『松の湯』なのも〝待つ〟にかけています」

 町を描くと言っても、ただ風景を描写するだけではない。師匠と落語論を語り合いながら玉出を散歩したり、歩くリズムに合わせて稽古しながら路地をめぐったり、甘夏と一緒に街歩きをしているようで楽しい。

「歩いて初めて発見することもあるじゃないですか。こんなところにお地蔵さんがある、とかね。玉出一帯も、昔はお堀に囲まれた環濠都市でした。織田信長と石山本願寺が戦った地なので、砦を守るようにお堀があって。そこを埋め立てたので、不自然な斜めの道や突き当たりが多いんです。『ブラタモリ』みたいで面白いでしょう? 大阪の人でも『へぇ』と思うような、地誌学的な楽しみもできるんじゃないでしょうか」

 街を歩きながら、師匠からオリオン座にまつわる話を聞く甘夏。そんなシーンから採ったタイトルにも、深い意味が込められている。

「高校時代にサマセット・モームの『月と六ペンス』を読んで、内容もさることながらタイトルがかっこええなと思ったんです。空の高みにある月と世俗的な六ペンス、その対比が見事ですよね。この話も、地べたで這いつくばって生きてる甘夏と、芸能という天空の高みにあるオリオンの物語です。それに、そもそも星座って、人間が勝手に星を結んで物語をつけたものですよね。落語も同じ。見えへんものを見えるようにするのが落語ですから。もうひとつ言うと、オリオン座を知らなかった甘夏に対し、師匠が怒る場面にも強いメッセージを込めました。世の中には知っとかなあかんことがある。知らんことは罪やぞ、と。読み終えたあと、もう一度タイトルの意味を考えてもらえたらうれしいです」

取材・文:野本由起 写真:下林彩子

 

『甘夏とオリオン』

『甘夏とオリオン』
増山 実 KADOKAWA 1600円(税別)
落語の師匠・桂夏之助が、ある日突然失踪した。残されたのは3人の弟子、小夏、若夏、そして駆け出しの女性落語家・甘夏。途方に暮れながらも「師匠を待つ」と決めた3人は、甘夏の居候先の銭湯で深夜寄席を開こうと思いつく。師匠の不在に右往左往しながらも、甘夏は一歩また一歩と成長を遂げていき……。大阪の下町・玉出を舞台に繰り広げる、落語と人と町の物語。