超高齢社会ニッポン、もはや他人事ではない 「認知症」を理解し受け入れるためには

社会

2016/5/10

『認知症の人々が創造する世界(岩波現代文庫)』(阿保順子/岩波書店)

 ついにやって来た超高齢社会。元気なお年寄りが増えたのは、日本の食文化と医療技術の進歩の賜物であるが、それと同時に暗い影も落とし始めた。社会保障費は膨らんで若者に負担が強いられ、地方の街の活気は減り、年老いた人々が起こす事件が増えている。タバコのポイ捨てをした老人を子どもが注意して、それにキレた老人が子どもを殴ったという話など目も当てられない悲惨な事件だ。そして増加の一途を辿る認知症の人々である。認知症の人々を介護する家族の負担はもちろん、彼らが車を運転して事故を起こす事例も多発し、最近では徘徊によって行方不明になった人々の数も年々増えているという。介護の難しい家庭が介護施設に入れたくても、どこの施設もいっぱいで困っているという話もよく聞く。社会がもうパンクしそうになっている気がしてならない。

 私自身、認知症については相当マイナスなイメージを持っている。それを承知の上で読んだのが『認知症の人々が創造する世界(岩波現代文庫)』(阿保順子/岩波書店)だ。本書は、認知症専門病棟に暮らす認知症の人々の生活の実態を調査した阿保氏が、様々な体験をもとに彼らの世界の現実と、彼らの暮らしがどう構成されているのかノンフィクションで描いたものだ。本書を読んで私は、認知症の人々に対しての見方が変わったと同時に、難しいと思った。

そう簡単に理解できない認知症という病気

 本書を読んでまず思うことが、認知症の人々を理解するにはそれなりの予備知識と、その本人の人柄や背景を知らなくてはならない、ということである。本書では、認知症の人々の性質、人柄、過去、その日起きたこと、会話などが克明に記されているので、とても理解が深まりやすい。何より、阿保氏自身の見解も含まれており、人間の本質に迫る記述がされている。その全てを紹介すると紙幅を埋め尽くし、本書を手に取っていただいた方が間違いないと思うので、要点だけをつまんで書きたいと思う。

不問に付す

 認知症の人々と接すると分かるが、全く意味の分からない世界を作っていることがある。関係のない人を息子や娘と思い込み、全く接点のない場所を自分にとって特別な場所と思い込む。そしてそれを頑として譲らない。これは私たちにはおよそ理解のできないことだ。阿保氏はこれについて触れている。認知症の人々は徐々に崩れゆく自分の様々な世界を、知識を、常識を一度解体して、新しいバーチャルな世界を再構築しているという。そのバーチャルな世界こそが先述した意味の分からない世界だろう。実は、それがおかしいというのを認知症の人々は知っており、しかしそれに深入りすると、せっかく作り上げた世界が崩れてしまうことも理解しているかもしれないというのである。なので「内実は不問に付す」のである。このことによって、彼らが今まで生きてきた世界や関わってきた人々の輪郭だけは残すことができる。その輪郭を失うと、彼らの居場所はなくなってしまうのだ。認知症の人々は、そういった苦悩や我慢を「不問に付す」ことで上手く生きているという。

内実は抜け落ちても「かたち」は残っている

 認知症の人々と接する上で大切なのは、関わる「かたち」だ。私たちだってそうだ。人と会えば挨拶をする。「いい天気ですね」なんて言う。しかし、本当に「いい天気」と心から思っているわけでも、それを突き詰めて話したいとも思っていない。その人と関わる1つの「かたち」なのだ。誰かと関わりたいのだ。それは認知症の人々も同じだ。抜け落ちる言葉や様々な認知機能。苦しみながらもがきながらも関わりたいのだ。だから何でもいい。返事をして関わってあげてほしい。内実は抜け落ちても、その関わる「かたち」を求めているのである。その会話の中身や関わり方は本人たちに任せればいいのだ。彼らも人間なのだ。

 本書を読んで、私は認知症の人々の理解が全く足りなかったと思った。色々な方に『認知症の人々が創造する世界』を読んでほしいと思った。しかし、介護の現場の現実は過酷だ。きちんとした介護をしてあげようとすれば、それなりのマンパワーを要するが、どの現場も圧倒的に足りていない。そんな人々にこの本を読んでもらっても、きっと理解するだけの余裕がないだろう。そんな人が大多数だ。だから私は難しいと思った。

 「不問に付す」というのは、限られた人のみが持つ特別な力かもしれない。

文=いのうえゆきひろ