山小屋を買う、南の島に逃げる…。疲れた男達、“愚かに遊ぶ権利”を行使せよ!

暮らし

2019/4/25

『大人の男は隠れて遊べ』(里中李生/総合法令出版)

 世の中には、これでもかというくらい偽善が溢れている。その上SNSなどで言葉尻の偽善バッシングを披露しながら何もしない人も溢れていて、彼ら、彼女らもまた「自分の正義」を他者に擦り付けるだけの偽善者、もしくは未熟者だ。

 これは世の常なのかもしれないが、“馬鹿正直”で本当の“いいヤツ”は、大なり小なり各々に生きづらさを抱えている。平気な顔で悪いことを(さして悪いとも認識せずに)やってのける人間がのうのうと生きているのに、「ほんとうの優しさ」を常に模索している賢者には圧力がかかる。

「正直者が馬鹿を見る」とはよく言うが、素直で、真面目で、優しい人が損をせず幸せに生きていく道はどこにあるのだろうか。本稿では、『大人の男は隠れて遊べ』(里中李生/総合法令出版)という書籍からそのヒントを得たい。

 内容を掘り下げる前に、本書を一貫するコアの部分を表していると思われる文章を、書中から引用させていただく。

政治家に絶望し、安い酒を飲み、街では人助けをしている君だ。
なんてクソ真面目なんだ。
もっと、バカになりたまえ。愚かには愚かで対抗する。それが神格化も仏教の修行もできない人たちの、生きる術である。

■「快楽」=疲れた人のためのもの

 世の中には、よく考えると非合理的にも思われる「規制」が溢れており、その反面、本当はきつく取り締まられるべきなのに放置されているものもある。既得権益層の都合が優先された結果、矛盾だらけの社会になってしまったのだ。本稿ではそれらの説明は省略するが、詳細が気になる方は本書を手に取って確認してほしい。

 そもそも善悪の判断や区別なんてものは、その大半が時代や国によって違う。それなのに大衆は明文化された規制を好み、ネットでは私刑が繰り広げられる。これは芥川龍之介の言葉にもあるが、私刑は大衆の娯楽だ。

 疲れていない大衆は規制を好み、道徳主義でもある。道徳的なのは良いことなのだが、それを主観で他人に押し付けるのは迷惑だ。そんなモラルと偽善を押し付ける社会に疲れ、「嘘」を吐けない人間たちが必要とするものは、「突き抜ける、大きな快楽」だと著者は説く。

 愚かな全体主義に流されず、しっかりとした自分の価値判断で生きる人々は立派な個人主義だと言えよう。そしてこの個人主義は、「快楽志向」と密接につながっているということを本書は示している。

■疲れた人には、愚かに遊ぶ権利=「愚権」がある

 まともなあなたが疲れるのは、愚かな人々や国のせいであり、そんなあなたには愚かに遊ぶ権利がある。著者は「愚権」という造語を用いて読者にそう訴えかける。

 愚かさを批判しながら愚かになることを推奨し、矛盾していると思う方もいるかもしれないが、ここには大切なポイントが存在する。それは、「決して他人に迷惑をかけないこと」だ。愚行は至福のひとときなので、その様子をSNSにアップするのも控えるべきである。

 世の中に溢れている遊び方やストレス発散法は、その多くが庶民からすると贅沢すぎて手が届かない。資本主義の渦の中、誠実なスタンスで一生懸命に努力をしても、不運に見舞われて成功できなかった人もごまんといる。そんな真面目な疲れた人たちはどうするべきか。

 そこで著者が推すのが、「山小屋」だ。山奥の安い小屋(車1台分くらいの出費で十分間に合うのだという)を買うか借りるかして、自由に、そして誰にも迷惑をかけずに精一杯の愚行に浸るのだ。これは決してふざけているのではない。

 山小屋は分かりやすい例だが、あなたにとって都合がよく、かつ隔離された空間であればホテルでも無人島でも何でもいい。その場所であなたは、普段肩身の狭い思いをしながら吸っている煙草を飽きるまで吸えるし、誰にも迷惑をかけることなく泥酔できる。裸になって叫んでもいいし、自身の性嗜好に合ったAVを片っ端から鑑賞してもいい。スマホの電源を落として、何も気にせず、ただ飽きるまで快楽に浸れば良いのだ。

「快楽志向」や「耽美主義」の傾向を持つ者は、本書の内容にかなり共感できるのではないだろうか。世の中でデカい顔をしている奴の中にもバカは数多く存在する。数でしか勝負できないバカによって善良な人が潰されるのは、本当は避けたいところだ。

 政治家に絶望し、安い酒を飲み、街では人助けをしている本物の“いいヤツ”は、本書の内容を参考にしながら(たとえ山小屋は買わないにしても)、ガス抜きをするのが良いのではないだろうか。そしてまた元気になって、俗世に戻ってきて、大切なものを守るため孤独に闘うのである。この上なく美しい生き方ではないか。

文=K(稲)