文系にこそ必要な「数学的思考」とは? 重要な意志決定に関わる人ほど不可欠な知識

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2020/4/12

『数学的思考ができる人に世界はこう見えている ガチ文系のための「読む数学」』(齋藤 孝/祥伝社)

 小学校で習う「算数」は生活で使うからと納得できても、中学校で習う「数学」は大人になってから何の役に立つのかと疑問に思った人は少なくないだろう。『数学的思考ができる人に世界はこう見えている ガチ文系のための「読む数学」』(齋藤 孝/祥伝社)の前書きにも、「公式覚えたって、普段使わないし、役に立たないでしょ」と文系の気持ちの代弁が記されている。

 著者自身、文学部の所属だそうだが教職課程の担当のため教える相手は文系・理系を問わず、しかし教室で比喩として数学的な話を持ち出すと、文系の学生たちはポカンとして、理系の学生たちは文系の学生たちが理解できないことに驚く様子を見続けてきたという。私はポカンとする側なので、本書を読む前に身構えてしまったものの、読んでみると数式そのものが出てくることは少なく、「タテガキの数学」によって数学の活用法を提案してくれた。

「微分」は数学的思考の華

 微分とは「瞬間の勢い」のことで、「微分的思考をすれば変化の度合いを予想することができる」ため、株価の変動や、学業やスポーツ指導において成長度合いを見極めるのに役立つという。面白かったのが『平家物語』を例に、何事も変化し続けることを意味する「諸行無常」と、ピークを迎えたら下り坂に向かうしかないことを示した「盛者必衰の理」をグラフ化するという試み。

 まず武士として高く評価され、朝廷から位をもらって貴族化した平家一族が日本で最初の武家政権を打ち立てるまでが山の頂点となり、そこから転落し壇ノ浦の戦いに敗れるまでを、著者は「平家曲線」と名付けていた。この曲線を微分すれば「いまこの瞬間の傾き」が、上り調子なのか下降に入っているのかを見極めて、清盛も自制することができたかもしれない。

「確率」で無謀な選択を食い止める

 文系の人でも馴染みのあるのがこの、確率だろう。天気予報の降水確率を見て、雨具を用意するか判断している人は多いはずだ。ところが、確率の理解が正しくないと痛い目に遭ってしまう。たとえば六面体のサイコロを振って1が出た場合に、「2回続けて同じ目が出る確率は、1回目より低いような気がする」と思った人は要注意。この場合、最初に出た目が何であるかは関係なく、2回目に特定の目が出る確率を指すので、あくまで6分の1である。

 しかし、「サイコロを2度振って続けて1が出る確率は?」となると、「2個のサイコロを振ってどちらも1が出る確率」を考えなければならず、答えは36分の1だ。これを理解しておかないと、人生において大事な局面での賭けに負ける可能性が上がってしまう。

「ベクトル」は方向性だけじゃない

 ベクトルもまた、一般的に使われる数学用語の一つと思われる。ただし、その意味を理解して使っているかといえば、これまた怪しいと言わざるをえない。私もそうだが、「方向」あるいは「方向性」とだけ捉えているのならそれは勘違い。ベクトルは記号で「←」と表されているとはいえ、数学においては「方向」と共に「大きさ」も持っているから、何かの目標に向かって努力している場合に「ベクトルが違う」と理系の人からアドバイスを受けたとすると、それは方向のみならず努力の量についても指摘されている可能性がある。著者は、ロックバンドなどの解散理由で語られがちな「やりたい音楽の方向性の違い」とは、「意欲や意志の強さにも違い」が生じてしまったのではないかと述べていた。

「集合」を使って頭の中をスッキリ

 実は本書を読んでいて、知りたくない事実に気がついてしまった。それは、数学を理解するのには国語力が必要だということだ。「または」を英語でいうと「or」であり、「かつ」なら「and」であるように、「18歳未満または高校生」と「18歳未満かつ高校生」という二つの条件を較べたときに、どちらのほうが当てはまる人が多いか咄嗟に分からないとすれば、数学力ではなく国語力に問題がある証拠。つまり、解説を読み返さないと理解が覚束なかった私は文系ですらなかったのか、というのが数学的思考によって得た解なのであった。

文=清水銀嶺

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