「義兄弟の契り」が映し出す、強く結ばれた絆のあり方。『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 特別編』第2話

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公開日:2022/4/21

※この記事は、作品の結末につながる内容を含みます。ご了承の上、お読みください。

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ
『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』©創通・サンライズ

 少年たちは盃を交わす。盃をふたりで分け合うことで、両者は義兄弟となる。盃を交わしたそのときから、一方は兄貴分として、一方は弟分として運命を分かち合うことになる。

『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』特別編#2は、鉄華団のターニングポイントを描く、TVシリーズの第6話から第10話までを30分にまとめたものだった。

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 オルガ・イツカや三日月・オーガスたち鉄華団は、火星の独立運動を指揮する少女クーデリア・藍那・バーンスタインを連れて地球へ向かう途中で、地球圏の治安維持組織ギャラルホルンと対立関係になってしまった。このまま進んでも、ギャラルホルンが立ちはだかることは間違いない。オルガは後ろ盾を得るために、地球とは逆の位置にある、木星圏の巨大企業体・テイワズと接触することを考える。テイワズは、表向きは大きな会社だが、実態は地球圏にも影響力をもつマフィアだった。オルガは、テイワズの傘下組織タービンズと一戦を交え、実力を見せると、取引を持ち掛ける。そしてタービンズのリーダーである名瀬・タービンの仲介により、テイワズの代表と直接交渉する場を設けてもらうことに。そして、オルガはテイワズの代表の前で、名瀬と盃を交わし、傘下に入ることを認めてもらうのだった。

 部屋の壁には何本もの掛け軸が並び、中央には祭壇が飾られている。そこに畳敷きの床の間があり、羽織と袴を着た鉄華団のメンバーを背にしたオルガが、名瀬と向かい合って座っている。するとオルガと名瀬の前に、小さな盃が置かれる。オルガはその盃を飲み干すのだった。まるで「任侠もの」のようなシーンが、「ガンダム」シリーズで描かれたのだ。

 本放送された当時、このシーンはファンの間では賛否両論の意見が飛び交った。和服という伝統的な衣装やいわゆる日本の風習を、「ガンダム」シリーズという未来SF的な世界に挿入する大胆な発想には驚かされたし、戸惑うファンも少なからずいたかもしれない。振り返ると、これまでの「ガンダム」シリーズの中には、和ものの文化が混じった作品もあった。主人公に和風の名前がついていることも、日本という国について言及されることもあった。「SDガンダム」シリーズでは日本の武将をモチーフにしたガンダムも登場している。だが、本作ほど明確に日本文化をストレートに描いた作品は珍しいのも事実だ。兄弟盃を酌み交わすシーンの背景には掛け軸がつるされているが、そこには「御留我 威都華(オルガ・イツカ)」「真紅真亞土 芭里主屯(マクマード・バリストン)/テイワズ代表」「名瀬・タービン(名瀬 蛇亞瓶)」と、筆文字によって名前が記されている。まさしく、日本の「任侠文化」を受け継いだシーンと言えるだろう。

 この「盃を交わす」シーンには、様々な意味が込められている。ひとつは本作のテーマのひとつである「家族」の表現だ。オルガは「死んじまった仲間が流した血と、これから俺たちが流す血が固まって、つながっちまっているんです。だから、離れられねえ」と仲間たちについて話す。彼にとって、ともに火星から旅立った仲間とのつながりは、血よりも濃い。口先だけの言葉だけでなく、伝統の儀式を経ることで、その絆は強く結ばれる。この物語のテーマである「家族」の表現のために「盃を交わす」シーンがあったのだろう。

 あるいは、任侠ものの作品を見慣れている人には、この「盃を交わす」シーンは、本作の今後の展開が予見できるシーンとして映ったのではないだろうか。イキがっている弱小集団が、大組織の若頭と盃を交わして、さらに大暴れしていく。任侠ものの作品ではオーソドックスな展開のひとつである。「任侠もの」は、1950年代から70年代ごろに映画が大量生産されていたころのプログラムピクチャー(年間番組)のひとつ。当時たくさん制作されていた「任侠もの」の物語には大まかなフォーマットがあり、アウトローが己の美学を貫くために、いわゆる一般的な幸福に背を向ける人間たちの姿を描いている作品が多かった。本作のシリーズ構成・脚本を手掛ける岡田麿里さんは、任侠ものや裏社会もが数多くつくられたVシネマ(ビデオ映画)で脚本を担当したこともあるという。おそらく、本作においても、その任侠もののセオリーとエッセンスを受け継いでいる部分が多いのだろう。

「任侠もの」の特徴は、「己の美学」を魅力的に描いていることだ。春日太一氏の著作『やくざ映画入門』(小学館)では、次のように記されている。「たいてい、我々はどこかで妥協して生きています。そうしなければ、生活が成り立たなくなります。だからこそ、たとえそのために我が身の破滅を招こうとも、自分なりの哲学、価値観を命がけで通そうとするやくざたちの生きざまがヒロイックなものになるのです。通したくても通せない我々のうっ憤を、やくざ映画のやくざたちは晴らしてくれるのです」。

 盃を交わす儀式を経て、彼らは名実ともに家族になり、自分たちが「帰ることのできる場所」を作り上げた――。任侠映画のフォーマットを借りることで、等身大のアンチヒーローを描こうとする、意欲的な試みである。そして、任侠ものの作品をよく知っている人は、イキがった新興組織が物語の中でどんな末路をたどるのかをよくご存じだと思う。まさしく、そのフォーマットの結末通りに本作は進んでいく。だが、その結末までに描かれる、彼らの輝きを見届けていきたい。

文=志田英邦

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