「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞! 中山史花『美しい夜』(単行本)発売記念 大ボリューム試し読み【10/10】

文芸・カルチャー

公開日:2024/5/21

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、晴野はるやと「欲望が怖い」少女、美夜子みやこが、夜に出会う物語。
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。

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中山史花『美しい夜』試し読み【10/10】

「……鹿野くん?」
 背後から呼ばれた瞬間に、暑さとは別の──今度はちゃんとそうだとわかった──嫌な汗が噴きだした。
「よかった、鹿野くんだ」
 おそるおそるふり返る。角のない丸い目が、こちらを見て笑っていた。
「こんばんは。偶然だねえ」
 高校の制服を着た須藤美夜子が、そこに立っている。ぼくは、足首から下がアスファルトと同化したみたいに、その場から動けなくなった。須藤美夜子はこちらを見つめて、肩を隠す黒い髪を夜に泳がせている。
「大丈夫?」
 訊かれて、でもぼくは、問いかけられているということにもしばらく気づけなかった。数秒、自分がここにいる理由ごと見失って、それから、ひどくゆっくり彼女の言葉をみ砕く。担任が来たときと、そのあとのことを言っているのだろうか。のろのろと理解して、ぼくは震えながら、時間をかけて頷いた。
「この前もそうだけど、いまも」
 彼女の細い首許で、制服のリボンが揺らめいている。
「わたしのこと、いやなんじゃないかなと思って」
 わかるんだ、と一瞬思って、でもそりゃあわかるか、と思い直した。ぼくの態度が友好的に見えるはずがなかったし、これで好かれているとでも捉えられるほうが奇妙だ。
「でもこのあいだは、先生のことも、すごく嫌そう、というか、つらそうだったから。先生を連れて行ったほうがいいかと思って……」
 正確には、彼女が嫌だというより、自分以外の人間の近くにいることが駄目だった。その人がだれか、どんな人なのかというのはあまり関係がなく、それはもう、虫を嫌いな人があらゆる虫に対して叫んでしまったり、寒さに弱い人が凍えた空気に耐えられずに身体を震わせたりするような、自分の意思でどうにかできる範囲にない、反射的な反応だった。
「迷惑じゃなかった?」
 重ねてたずねられ、うろたえる。震えてちゃんと身体を動かせているのかわからないまま、うつむきがちにおそるおそる首肯した。
「それなら、よかった」
 表情を見なくても、彼女が笑ったのがわかった。
「先生は、あれから来てない?」
 ぼくは先日アパートに訪れた担任の姿を思いだし──思いだすな、と思う前に脳が思いだしている──口をひらけずに、ただ首を縦にふる。
「先生には、わたしが鹿野くんと友達になったから、こまめに様子を見に行ったり、学校に来られそうか聞いたりするから、しばらくはそっとしててくださいって言ってあるんだけど」
 担任の、ぼくを呼ぶ大きな声も肩を摑む手の感触もまだ記憶に新しい。ぼくは震える指先に力をこめて、こぶしを作った。
「学校に行くかどうかは鹿野くんが選ぶことなのに、勝手なこと言ってごめんね。しばらくは先生がおうちに行かないようにがんばるけど、留年とかに関わりそうになってきたら、先生も、また鹿野くんのおうちに来ちゃうかもしれない」
 彼女がそう言った声が、気のせいか、どこか申し訳なさそうに聞こえる。担任がうちに来ないでくれるなら、ぼくにとってはとてもありがたい。でも、須藤美夜子が、教師に嘘をついてまで「がんばる」意味がわからなかった。そんなことをがんばったところで、きっと彼女にはなんの得もない。ぼくが言うことではないけれど、そんなことに労力を割くより、勉強や部活にいそしんだり、友達と楽しくしやべったりするほうが、よっぽど有意義で充実した時間を過ごせるに違いなかった。
 なぜ、と思いながらも、疑問は声にはならない。無言のままいると、彼女は今度は神妙な声を作って、
「学校の先生に嘘つくのって、悪い人間っぽくてどきどきするね」
 と言った。
 視界のぎりぎり、薄闇の中で、声をこぼす彼女の唇がゆるやかに弧を描く。
 そうか、と思った。須藤美夜子が担任に嘘をつくのは、ぼくのためではない。あるいは、ぼくのためでなくてもいい。彼女には、どういうわけかはわからないけれど「悪い人間になりたい」という目的があって、その目的の道中で、ぼくが勝手に助けられるだけなのだ。
「──あ」
 喉がぎこちなく振動する。それでも、彼女の行動の目的や意図が、どうであったとしても。
「……あり、がとう」
 いっときでも、助けられていた。ひどくつっかえながら、どうにか言葉をとりだす。足許が暗い。ぬかるみに立たされているようなおぼつかなさに、よろめきそうになる。
「鹿野くんは、わたしのことが嫌なんじゃないの?」
 予想外のことが起きたように、須藤美夜子の声がはねた。木琴も音を外すのか、と頭の中の冷静なところで思う。夜の暗さは彼女のそうぼうをいくらかぼやかしているけれど、声も気配も薄れることはなく、身体の震えがなくなったりましになったりするわけでもなかった。
「ぼくは……」
 水を張った洗面器に顔を出し入れしているような、酸素の足りなさみたいなものが目の前をわずかにかすませる。
「ぼくは、人が、こわい」
 途切れ途切れに言うと、彼女は、ゆっくりとしやくするような間を置いた。それから落ちた花首を拾い上げるみたいに、やわらかい音で言った。
「じゃあ、一緒なんだ」
 一緒?
 すべてのものに慈愛を向けるような温度で、彼女は言った。でも、一緒って、なにが。人がこわいということが? けれど彼女はなにかにおびえているようにはまるで見えなかった。握っていた拳をひらいたら、いつしか爪が食いこんでいた手のひらをぬるい空気が撫でる。そのときになってようやく、ぼくはさっき買いものをした大きなビニール袋をどこかにとり落としてしまっていることに思いいたった。
「わたしも、人が、こわいよ。でも、鹿野くんはこわくないな」
 なんでだろう? と須藤美夜子がつぶやく。
 彼女がどうであれ、どんな人であれ、ぼくは彼女のこともこわかった。彼女の意思とは反するのかもしれないけれど、彼女が悪い人ではないらしいことは、ぼくにもわかった。人を殴ったり蹴ったり、罵倒を浴びせたりするようなことは、おそらくしないんだろう。だけど頭でわかっていても、ぼくの身体は最初からずっと、どうしようもなく震えつづけている。
「ごめんね、つらい?」
 身体を震わせていたら、須藤美夜子がぽつりと言った。もう少し離れようか、と言うなり彼女は住宅街を軽やかに歩いていく。カッターシャツにつつまれた背中が、逆光で暗闇になった。
「このくらいだとどうかな」
 ふり返った須藤美夜子は、教室のいちばん前といちばんうしろくらいの距離まで、遠ざかっていた。身体の震えはおさまっていない。ぼくはけれど、戸惑って、間違って首を縦に動かしてしまった。須藤美夜子がふっくらした大きな目を細めて笑った気がした。
「鹿野くん。あのね」
 離れたところから、彼女はぼくに言葉を寄こす。
「前に、どうやって学校に来ないのって訊いたけど」
 どうやってもなにもない。本当に、ただ、行けないだけなのだ。人と話そうとするだけで、人とすれ違うだけで、人の姿を見るだけで、汗や身体の震えが止まらなくなる。発声も歩行もままならなくなり、ひどいと気持ち悪くなって、吐き気がする。人のほとんどいない深夜にコンビニに行くのがせいいっぱいなのに、こんな状態で学校なんて行けるはずがない。
「鹿野くんがいちばんこわいのは、人ということ?」
 ぼくは、とっさにほかにこわいものが思いつかなくて、頷いた。返事をした形になってから、彼女に言われたことを頭の隅でほどいていく。
 一緒、だと彼女は言った。彼女も人がこわい。それでいて、いちばんこわいのは、と訊くということは、
(人よりも、本当にこわいものがあるの)
 胸の内で思ったことはじっさいにはかけらも口からこぼれないで、声以前のところでゆるやかに霧散した。
「もうちょっと近づいたら、つらいかな」
 離れているから、須藤美夜子は声を張らねばならなくて、ぼくは彼女に声を届かせられるほど大声がだせなかった(ぼくにはそもそも、言葉を組み立ててりゆうちように話すことじたいが難しかった)。深夜にあまり大きな声をだしていたら、近隣住民が不審に思うかもしれない──でも、そもそも会話じたい、する必要があるんだろうか。頷いてばかりだったぼくは、今度は首を横にふった。
「帰る、から」
 ぼくは、そのうち来るかもしれない担任に怯えながら、つかのまの平穏を過ごすだけだ。それしかできない。ぼくの蚊の鳴くような声で聞こえていたかわからないまま、背を向けた。すると、あ、待って、と呼び止められる。直後、なにかがつま先に引っかかった。予期していない障害物に身体が前のめりになる。こらえることができず、そのまま地面に手をついた。
「鹿野くん。大丈夫?」
 さっき買ったものの詰まった、大きなビニール袋だった。ぼくがいつしか手から落としていたものだ。インスタントめんの容器がひとつふたつ、袋からこぼれてアスファルトの上に転げている。光の角度で、追いかけてきた須藤美夜子の影が森のように大きく見えて、身が竦んだ。須藤美夜子は立ち止まり、「これ、鹿野くんの?」と、ぼくの落としたものを拾い上げ、砂埃を払った。
「手、擦りむいた? わたし、絆創膏持ってるよ」
 彼女はスカートのポケットから絆創膏をとりだして、ぼくの前に差しだした。伸びてきた腕に、ぼくは地面におしりをついたままあとずさる。
「だ、いじょうぶ」
「そっか」
 驚かせてごめんね、と須藤美夜子も一歩下がった。痺れるみたいに揺れている手足で、どうにか立ち上がる。落とした袋を摑み、これ以上落とさないように気をつけよう、と力を入れようとするけど、震える手の先で、袋は強風になぶられているみたいにぐらぐら動いた。
「帰る?」
 頷くと、彼女はぼくに向かって手をふった。
「じゃあ、またね。気をつけてね」
 ──晴野くん、あそこに手をふってる子がいるよ。晴野くんと同じくらいかな?
 ──バイバイって、晴野くんも手をふってごらん。
 小学校に上がる少し前、トウマに連れられて行った散歩の途中で、言われたことをふと思いだした。そのときはトウマに言われるがままに手をふっていて、どうして手をふるのかはよくわからなかった。
 いまは、友達や恋人と会ったあと、その帰りぎわに、人は手をふって別れるのだということを知っている。知っているのと、じっさいに自分もその動作によるコミュニケーションをおこなっているかどうかはまた別の話なのだけれど──
 ぼくは目を伏せて、身体の向きを変え、公園をあとにした。離れれば離れるほど、人の気配が自分から遠ざかっていって、孤独になっていくような感覚に気持ちが安らいだ。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介

美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日

「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の晴野はるやは部屋を出られない。胸がどきどきして苦しくなるからだ。
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の美夜子みやこと出会う。
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。 

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