「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞! 中山史花『美しい夜』(単行本)発売記念 大ボリューム試し読み【9/10】

文芸・カルチャー

公開日:2024/5/21

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞受賞!
新鋭・中山史花さんによる、みずみずしい感性で描かれた物語『美しい夜』を大ボリュームで公開いたします。
「人が怖い」独りぼっちの少年、晴野はるやと「欲望が怖い」少女、美夜子みやこが、夜に出会う物語。
「引きこもり」「不登校」「ネグレクト」「虐待」など、重いテーマを扱いながらも、
美しい文章で紡がれる物語は不思議と重さを感じさせることはなく、ただ胸を引き絞られるような切ない痛みと、甘い優しさをもって進んでいきます。
出会いによって、夜に閉じ込められた二人が次第に光に向かっていく様を、ぜひご覧ください。

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中山史花『美しい夜』試し読み【9/10】

 みぞおちのあたりに深い衝撃を受け、数秒、呼吸が止まった。はずみで壁に背中を打ちつけて、身体が前とうしろの両方から圧迫される。全身がしびれて、かれて平らに引き伸ばされた蛙になったみたいに、その場から一歩も進めなくなった。
「おい、子供なんかどっかやっとけよ」
 母の連れてきた男の低い声が、なじるように母に言いつける。男の、黒い靴下を履いた足の先が頭の奥で揺れて、られたのだと呼吸の自由を奪われた身体で理解した。痛みよりも、臓器ごと押しつぶされてしまいそうな圧迫感が、衝撃を受けた腹部と背中から頭のてっぺんとつま先まで広がっていく。はりつけにされたように動けず、廊下に伸びたぼくの身体に、もう一度、男の足先がかざされた。腹部に走る鈍い衝撃と同時に、「なにか言った?」と母の軽やかであかるい声がするのを、他人のことみたいに遠くに聞いた。
「あら? はるや、こんなところで横になってどうしたの。向こうに行ってなさい」
 靴を脱ぐのに手間どっていた母が遅れて室内に入ってきて、男を連れて奥の部屋に入っていった。二度蹴られた場所が、じれるようなうるさい感覚を訴えかける。向こうってどこだろう。そんなことを思っても訊かない。ぼくがふたりの目につかない場所が正解だった。
 早く「向こう」に行かないといけない。
 浅い呼吸をくり返し、腹部の重い身体を引きりながら浴室へ向かった。そこがただしい場所であることを願って浴室へ繋がる引き戸を開け、湿りけを帯びた脱衣所の、足拭きマットの上に座りこむ。戸を閉めると、自分ひとりだけの空間がうまれて少しだけ気がゆるんだ。ひと息ついたら腹部の痛みが鮮明になりだして、ぼくは気を紛らわせようと、よれた足拭きマットの毛羽立ちを数えはじめる。無数にあるように思える足拭きマットの繊維は数えても数えてもきりがなく、まばたきをするだけでもうどこまで数えたかわからなくなった。何度もはじめからやり直しながら、ぼくは毛羽立ちを数えつづける。そのさなかで、知らない女性の声がした。知らない声、と一瞬思ったけれど、何度も聞くうち、それは母の声だと気がついた。やっぱり幸せそうだ、と思って、ぼくはあんした。
 立てつけのよくない脱衣所の戸は、どんなにぴったり閉めようとしてもわずかに隙間ができた。その細い隙間から漏れ入る電灯の明かりを頼りに足拭きマットの毛羽立ちを見ているうち、時間が流れた。やがて母の声がしなくなり、かと思えば、唐突になにかこじ開けるような大きな音が鳴った。音はすぐそばで響いて、驚いて顔を上げた瞬間に腹部が痛かった。暗がりだった脱衣所に、光が注がれる。顔を上げて飛びこんでくる電灯のまぶしさに目をくらませるより少しだけ早く、シャツに覆われた手首をとられて、視界がぐるっと回転した。
 引き摑まれて脱衣所の外へ転がり、薄くほこりの溜まった床に身体が投げだされた。中学生の平均より低い身長と、平均以下の体重しかないぼくの身体は男のぶ厚い腕一本でいとも簡単に追いだされた。
「邪魔だっつったろ」
 かすかに耳鳴りがして、声がこもって聞こえた。
「はるやったらどうしてこんなところにいるの? お外で遊んでらっしゃいよ」
 母は、たびたびぼくをおかしなタイミングでお風呂へ入らせたことなど忘れたように言った。見ると、母と男はその身にほとんどなにもまとっていなかった。男の上裸が迫ってくる。さっきは履いていたはずの黒い靴下も男の足先から消えていた。どこにいったんだろう、とのんきなことを考えた一瞬ののち、ぼくはよろけながら壁づたいに廊下を歩いて、玄関へ向かった。床にぶつけた頬や膝やすねがひりひりと熱を持つ。「ヒロくん、ねえ、こっち向いてよ」せいを放つ男をなだめるミルクチョコレートのような母の声を聞きながら、外へつづくドアのノブを握った。足を踏みだす。力の入らない身体で、けれどなるべく急いでドアを閉めた。
 外は夜で、共用灯がうなりながらアパートの通路を照らしていた。汚れた通路を歩き、階段を下っている途中で靴を履いていないことに気づく。日中の太陽の熱をすべて逃がしてしまったような、ひやりとした温度が足の裏に触れた。そのまま階段を下りていると、小石を踏んでしまって足の指の付け根あたりに鋭い痛みが走る。
 身体のどこが痛いのか、そもそも痛くない場所はあるのか、わからなくなりながら歩いた。でも行くところなどないから、ぼくの足はアパートの裏の茂みで止まった。うっすら雑草の生えた土の上に、ふらつきながら腰を下ろす。
 脱衣所も正解ではなかった。ぼくはだれかを怒らせるか、だれかの厄介者になりつづけるか、そればかりだ。意味のないものが好きだった。意味をさがすのは少しこわかった。意味。だけど、本当にいちばん意味がないのはぼくだ。それは悲観でも絶望でもなく、ぼくにとっての事実だった。たぶん、ほかの人にとっても。他人の気持ちを推しはかることはできないし、ぼくが決めつけるのはごうまんだけれど、きっとそうだった。
 冬の終わりかけの夜の空気は冷たくて、けれど空気の冷たさはぼくとはなにも関係がない。関係があるなんて思うほうがおこがましくて、そのことにほっとする。座りこみながら、ぼくは時間が過ぎるのを待っているのか立ち上がれなくなったのかわからないで、草木と一緒に風にあたっていた。

 食べるものがなくなってきて、外へ出た。あたりにひとけがないことを確認して、アパートの階段を下りる。階段の一段一段を踏むたび、きしんだ音が夜の空気を裂くように響いた。長袖のシャツに覆われた身体は、少し歩いたらすぐに汗ばむ。蒸した空気が夜を満たしていた。
 須藤美夜子の言葉の通り、あれから担任は姿を見せなかった。二、三日は気が気でなく、家にひとりでこもっていてもちっとも気が休まらなくて、夕方が近づくのがおそろしかった。担任が来るのがこわい。だれにも会いたくない。その気持ちは全身に転移してとり返しのつかなくなったしゆようのように、切り離すこともできずにぼくをむしばんだ。だれが訪れることもない、平穏な日が何日かつづいてどうにか少しずつ落ち着けるようになってきたけれど、これはあくまで一時的な安全なのだということは、ぼくも、少なくとも頭の中では理解していた。
 最寄りのコンビニに近づく。白い光がこうこうと放たれていて、そのまぶしさに目をすがめた。耳を塞ぎながら中に入って、人の姿を見つけないように注意しつつ陳列棚の横を足早に進む。気をつけたつもりだったけれど、視界の端でおにぎりの補充をしている店員の姿をとらえてしまい、一気に鳥肌が立った。
 暑さを感じていたはずなのに、空調と、全身に及んで消えない寒気とが、急速に、ぼくに自分の体温をわからなくさせる。たったいま見てしまった人の姿の影を瞼の裏から追いだそうと試みながら、インスタント食品とビスケット状の栄養補助食品を買いものかごへ入れていった。なるべく安くて、皿を汚す必要のないもの。しばらくは外に出なくていいように、と思いながら買い溜めをして、一日に一食しか摂らなかったり、ぼんやりしていて一日じゅう食べなかったりしても、気がついたら食べるものはなくなっている。他者をおそれ、極力部屋に閉じこもって暮らし、世の中から転がり落ちているような気持ちなのに、それでも生きようとしていることが、ぼくはときどきふいに不思議になった。
 うつむいたまま会計に向かう。それでもすべてを遮断することはもちろんできなくて、声が、袋詰めでがさがさ動く身体が、お釣りを差しだす手が、ぼくを脅かし肩をはねさせた。小刻みに揺れる指先で財布にお釣りをしまって、焦るような気持ちでビニールのとつを摑む。
 急いでコンビニから離れるように、アスファルトの上をおおまたで歩いた。ひとりになれば、震えはゆるやかにましになっていく。首すじに手を触れると湿っていて、少し気持ち悪かった。汗が、暑さのせいなのかそうじゃないのか、この季節ではあいまいになる。ぼくは、いつまでこんなふうに、生きたらいいんだろう? 考えながら歩いているうち、分かれ道に差しかかった。
 思わず歩調をゆるめてしまう。
 曲がってすぐのところに、先日、須藤美夜子に連れられて話をした公園があった。
 話をした、といっても話していたのはほとんど彼女のほうだけれど──ぼくから担任を遠ざけたあと、宵に紛れていく彼女と、真夜中に出会った彼女とを順に思いだして、彼女は、今日も外を出歩いているんだろうかと考えた。いちばん上まで留めたシャツのボタンが首許を圧迫する。コンビニでは真冬のさなかにいるみたいに震えていた身体は、いまはただ汗ばんでいるだけだった。閉じた袖口は、服の中に風の侵入さえ許さないような窮屈さをもたらす。

★つづき【10/10】はこちら

作品紹介

美しい夜
著者 中山 史花
発売日:2024年05月21日

「わたし、悪い人間になりたいの」純粋すぎる二人の、胸を打つ青春純愛小説
高校生の晴野はるやは部屋を出られない。胸がどきどきして苦しくなるからだ。
そのせいで学校にも行けず、ひとけのない夜にだけ外に出る生活。
奔放な母親は再婚した義父と暮らしており、連絡は途絶えがちになっている。
母親の記憶は、見知らぬ男からの暴力と二重写しだった。
ある夜、コンビニからの帰り、晴野は同級生の美夜子みやこと出会う。
「悪い人間になりたい」という彼女は、そのわりに、飲酒も喫煙も、
万引きも暴力も「犯罪だから駄目だよ」と言う。
そして晴野は美夜子と、まるで子供の遊びのような、無邪気な夜の時
間を重ねていく。しかし夏のある日、彼は彼女の「秘密」に気づき……。

「魔法のiらんど大賞2022」小説大賞<文芸総合部門>特別賞
優しく美しい言葉で紡がれる、胸を打つ青春純愛小説。 

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